あばれ鳶

1956年12月12日(水)公開/1時間29分大映京都/白黒スタンダード

併映:「高校生と殺人犯」(水野/品川隆二・南佐斗子)

製作 武田一義
企画 浅井昭三郎
監督 森一生
脚本 八住利雄
撮影 本多省三
美術 西岡善信
照明 島崎一二
録音 林土太郎
音楽 鈴木静一
スチール 杉山卯三郎
出演 嵯峨三智子(柳橋小染)、林成年(すりの三吉)、近藤美恵子(お光)、黒川弥太郎(池田筑前守)、中村玉緒(半玉小信)、小町瑠美子(琴江)、潮万太郎(は組の留吉)、八木紀子(柳橋染次)、千葉登四男(は組の半次)、伊沢一郎(松平刑部)、山茶花究(家主久兵衛)、小堀誠(頭長五郎)、清水元(岡見角太夫)、荒木忍(荒尾但馬守)
惹句 『恋の火の粉が雨と降り、意地と喧嘩の花が咲く』『鳶口取ったは江戸一番の町火消恋を争う意地と鉄火の花二つ』

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◆解 説◆

 纏片手に恋の達引と男の意地を描いた時代篇。『台風騒動記』の八住利雄が脚本を書き、『銭形平次捕物控 人肌蜘蛛』の森一生が監督、『不知火奉行』の本多省三が撮影を担当する。

 主な出演者は『月形半平太』(1956)の市川雷蔵、林成年、『この女に手を出すな』の瑳峨三智子、『第三非常線』の近藤美恵子、他に中村玉緒、黒川弥太郎、小町瑠美子。宝塚歌劇団から大映入りした八木紀子が第一回出演する。

◆物 語◆

 江戸の夕暮、半鐘の音とともに吹上げる焔。火事場の湯島聖堂では“は組”の必死の消火が続く。火事は納まったが纏持ちの半次と小頭の源太は、旗本松平刑部が自分の邸を守るため鬼面組に命じ周りの民家を無法にも壊したのに激しい怒りを覚えた。なおも面白がって民家を壊す鬼面組とは組の間に一瞬危機がはらむが老中池田筑前守の出現で事なきを得た。

 は組の組頭長五郎の娘お光は源太に思いを寄せていたが、長五郎も二人一緒にして跡目を譲りたいと考えていた。しかし源太には小染という将来を誓った芸者があり、半次はお光を慕っていた。刑部は松平家を継いではいたが妾腹の生れで、実は行方の知れぬ左近という正室の生んだ弟があった。これを刑部は常に心に咎めていた。また刑部は火事場の一件以来は組を快く思わず、小染を欺いて鬼面組の酒宴に連出した。そこには半次も捕われていた。小染が抵抗する隙に半次は逃出し長五郎らに急を告げた。組の連中はいきり立ったが騒ぎの大きくなるのを慮って涙を呑んだ。小染は近くにいた池田筑前守の手で危機を脱れたが一時姿を隠すことにした。

 お光は遂に源太を諦めることにした。ところが半次は、お光が源太を慕っているとばかり思いヤケを起し、スリの三吉を相手に飲酒中、鬼面組の手で斬られた。三吉とは刑部の弟右近であった。源太との結婚式を控え、小染は又も松平家にさらわれ、そのうえ組の纏まで奪われた。ここに、いろは各組は遂に立上った。松平邸に捕われた小染が激しく抵抗するうち燭台の火が障子に移り松平家は火の海と化した。源太は「私怨を火事場へ持込むな」と火事場へ駈けつけた。松平邸は焼け尽したが刑部は今や心から源太らに詑びた。纏も戻り、源太と小染は結ばれた。(キネマ旬報より)

 

 大映京都スタジオの『あばれ鳶』は、江戸時代の人気者である火消の世界を描くものだが、その町火消の伝統の実際を映画にとり入れるため、東京花川戸の鳶職桶田弥三郎氏をスタジオに招いて指導に当ってもらった。

 纏の振り方、鳶の持ち方から、こまごまとした小道具の配置に至るまで、歴史が古いだけになかなかむずかしい作法がある。桶田氏の先祖は“ち組”に属していたそうで、教わる雷蔵君も一生懸命である。

 

市川雷蔵初の鳶もの

歩き方から練習

 市川雷蔵は映画入りして二年余にして売物になったといわれている。それも大映時代劇の若手一枚看板としてである。いま『続花頭巾』(田坂勝彦監督)と並行して初の鳶もの『あばれ鳶』(森一生監督)にかけ持ち出演中だが、彼の新しい魅力−町火消しの話などを中心にいろいろ聞いてみた。

 雷蔵君曰く

 同じ時代劇といっても町火消しをやるのは歌舞伎、映画を通じてこれが初めて、“やくざもの”と並んで“鳶もの”というのは威勢のいいことでは、やはり時代劇の花でしょう。だから時代劇スターなら一度や二度はかならず通らねばならぬコースです。

 撮影に入る前に、東京から桶田弥三郎さんという花川戸の本職の抱鳶の方に来ていただいて、いろいろ指導を仰ぎましたが、鳶口のもち方一つにしても教わらなければならないことばかり・・・撮影に入ればまた桶田さんに来ていただいて、「ハシゴ」の持ち方、登り方、マトイの持ち方なども実地に教わることになっています。

 当時の火消し人足は、今でいう土建屋あるいは大工のような仕事をしていた様です。だからまず歩き方一つにしても、日ごろから丸太の上を歩くことが多いため、一線上しかも足先を外に向けて歩く習慣があるそうです。従って、ダンスのレッスンよろしく歩き方から練習開始です。

 其のほか、はち巻も豆しぼりの手拭で、決まった結び方があるそうです。五枚コハゼの紺タビ、すべり止めになった草履など変ったことばかり、勉強することが余りに多すぎます。演技的には威勢のいいタンカを切るため下町風にテンポも早く、一見やくざに非常に似ていますが、これをどこで線を引くか、芝居の上では大いに苦労するところです。それにとにかく、映画は江戸時代の男の世界を描いたものであるから、見た人が歯切れよくて威勢がいいと感じてくれたら成功だと思います。(57年1月発行寿会会報No.3より) 

 

あばれ鳶

滝沢 一

 時代劇がトビ物に執着する理由が私にはよくのみこめないのだが、この映画でトビの小頭である主人公が、オレ達から意地と義理をぬいたら何が残るかという意味のセリフをいうので、なる程とうなずけた。主人公が万事に義理をつくし、意地をつらぬくというストーリーにはやくざ映画の変型としてトビ物の存在理由が納得出来るからだ。それにトビ物映画にはつきものの火事場シーンが、映画ではひとつのスペクタクルにもなるであろう。けれども火事場シーンのスペクタクル化は、今日ではもうカラー映画でないと出せないもので、この作品も最後の火事場シーンには力をいれて撮っているものの、迫力がない。『日本橋』のカラーでみせた火事場シーンの凄愴さをよかったと思う。

 この種の作品はいずれ悪旗本と町火消の対立といった程度のストーリーしか考えられず、大部分演出のテクニックによってアクセントをつけてゆかなければならない。風にゆれる柳、ろうそくの灯のゆらめき、そこへヌッと血のりのついた刀が出る。森一生はそういうショットのつなぎ方に切れ味を見せるが、個々の場面には演出の精粗の差が目立ちすぎる。

 置屋で芸者達がむだ話をしているシーンは、まるで飯盛女がとぐろをまいているみたいだ。一方判次の殺し場など十分スゴ味を出しているのだが、とにかくむらが多い。そしていずれにしてもこれはすべて余りに時代劇のルーティンでありすぎた。興行価値:雷蔵初の鳶もの、火消と旗本の喧嘩という御膳立は古くさい。雷蔵、嵯峨の線で売る映画である。(キネマ旬報より)

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