1958年10月1日(水)公開/2時間18分大映京都/カラーシネマスコープ

製作 永田雅一
企画 辻久一、税田武生
監督 渡辺邦男
脚本 八尋不二・渡辺邦男
撮影 渡辺孝
美術 上里義三
照明 伊藤貞一
録音 大谷巌
音楽 山田栄一
助監督 西山正輝
スチール 小牧照・西地正満
(特殊撮影スタッフ関係)
助監督 黒田義之
撮影 今井ひろし・築地米三郎
プロセス撮影 本間成幹
照明 中岡源権
移動効果 村若由春
製作進行 田辺満
出演 長谷川一夫(日蓮)、勝新太郎(四条金吾)、林成年(日朗)、梅若正二(比企小次郎)、淡島千景(吉野)、叶順子(萩江)、黒川弥太郎(日照)、河津清三郎(平左衛門頼綱)、田崎潤(依智の三郎)、千田是也(重忠)、松本克平(宿谷入道則光)、勝新太郎(四条金吾)、永田靖(極楽寺入道重時)、左ト全(老武士)、石黒達也(比企大学)、志村喬(弥三郎)、中村雁治郎(道善)、東山千栄子(梅菊)、浦辺粂子(弥三郎の女房)、千葉敏郎(平景信)、島田竜三(河野通有)、舟木洋一(浄観)ほかオールスター
惹句 『雷鳴轟く大暴風雨怒涛逆巻く玄界灘蒙古数百万の大船団来襲敵国降伏を絶叫する日蓮今ぞ世紀の大決戦は迫る』『日本映画始まって以来の最高最大のスペクタル巨篇』『蒙古来る北より来る四百余州をこぞって迫る百万の大船団迎え撃つは若き執権北条時宗時に、決然立ち上る救国の人日蓮

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[解 説]

★『日蓮と蒙古大襲来』は、偉大な愛国者日蓮上人の清らかな人格と燃えるような情熱を中心として、蒙古大襲来に際しては、「南無妙法蓮華経」の旗の下に、一致結束して未曾有の国難を克服したわれら日本人の姿を、誇り高く表現するものです。

★従って、この映画の物語は、日蓮の救国・救民の熱情と未曾有の国難を中心に、歴史の事実から飛躍して自由に創作したものといえます。

★この映画は文字通り大映年来の夢でしたが、その実現に当って、準備に費やした努力と費用だけでも映画史にかってなかったものです。

★すなわち、構想三年、脚本執筆一年半(第五稿まで)を費やし、総製作費五億を計上した中でも、本映画で重大な役割を演ずる特殊撮影については、巨費四千数百万円を投じて、東洋一を誇る特撮用マンモス・プールをはじめとする諸設備を完了し、大映技術陣は撮影開始前より各種の困難な条件を克服し、数百回にわたるテストの結果、今や海外映画をしのぐ自信を得るに至りました。

★例えば、竜の口の法難場面では、一瞬天より降った雷火が、日蓮を斬ろうとする処刑者の刀を三段に断つ、あるいは日蓮が荒天の海に題目を書くと金色でその字が浮かび、忽ち嵐が凪いでしまう、いわゆる波題目の奇跡、更に大地震あり、最後に蒙古十万の軍船が博多湾を埋め、数々の戦闘場面を経て、クライマックスの大暴風雨で、全艦隊が海の藻屑と消え去る凄まじいスペクタクル・シーンまで、かの洋画『十戒』をしのぐものとして、大映スコープ総天然色の大画面を圧し去ることは疑いありません。

★また、スタッフについても、最初より四班編成で劇と特撮とが同時にスタートし、ロケにセットに緊密な連絡のもと、渾然たる作品を作り上げるもので、今回のロケでは鳥取の大砂丘に、富士の裾野に、エキストラ数千の大戦闘場面を約十日間にわたって展開しました。

★配役についても、渡辺邦男監督が、「日蓮を演ずるにはこの人をおいてない」と折り紙をつける長谷川一夫をはじめ、北条時宗には市川雷蔵、鎌倉の若武者に勝新太郎、梅若正二、日蓮の弟子に黒川弥太郎、林成年、日蓮を慕う健気な白拍子に淡島千景、武家娘に叶順子(時代劇初出演)らほか、大映のオールスターと新劇人を網羅した大キャストを組み、一ヵ月半にわたって延人員十万を数える大撮影を展開する壮観は、全く映画界未曾有のものといえましょう。

★この規模、この配役を以って、永田社長総指揮の下、全大映の総力を十二分に駆使した巨匠渡辺邦男監督が、文字通り一世一代の情熱を注いで大銀幕に描く正に世紀の大作ともいうべき『日蓮と蒙古大襲来』は、同時に日本人必見の映画だと断言してはばかりません。(公開当時のパンフレットより)

 

 

五つの地方 関東、北陸、山陰、四国、九州にまたがる

ロケーションも空前の大規模

スタジオも『日蓮と蒙古−』一色で

 八月上旬より撮影を開始した大映の超特撮時代劇『日蓮と蒙古大来襲』(天然色・スコープ、監督渡辺邦男)は、日本映画始まって以来の最高最大のスペクタクル巨篇として、長谷川一夫の日蓮、市川雷蔵の北条時宗、淡島千景の白拍子吉野ほか、大映オールスターキャストで、撮影まさにたけなわというところで、いまや大映京都は『日蓮と蒙古大襲来』一色に塗り潰された感じだが、以下その概況をしるしてみると−。

 この作品で重要な役割を占める特殊撮影班の内一班は、本篇の撮影開始と同時に福井県方面のロケから行動し、いま一班は所内に新設された二箇所(オープン及びステージ内)の大プールで、蒙古軍船その他の大がかりなミニチュアの特殊撮影をはじめ、またスクリーンプロセス班は、高知県室戸岬へ、更に福岡県博多の浜へ足を延ばすという有様である。

 また、セットの約三分の一を上げた渡辺組本班は、ニ十日より約一週間の予定で鳥取砂丘方面で、長谷川一夫、黒川弥太郎、勝新太郎、梅若正二、林成年、島田竜三、叶順子らほか一行役五百名の大ロケ隊が、日蓮を中心とした由比が浜、佐渡の海等の海岸シーンの芝居場と、蒙古軍上陸の大モッブシーン(現地エキストラ一千人動員)を展開、これと並行して特殊隊もこのロケ地で合成写真その他の大撮影を始め、このロケ終了後、更に富士の裾野御殿場方面で、蒙古騎兵五百騎が荒野を疾駆するシーンを撮る予定になって居り、実にロケだけでも、関東、山陰、北陸、四国、九州と日本全土を駆けめぐるという大がかりな撮影である。

 なお、今回の撮影で特に目立ったのは、全国に八百五十万からあると伝えられる日蓮宗信者の動向で、早くから渡辺監督や日蓮上人になる長谷川一夫に激励の手紙が舞い込み、全国の信者たちが、お寺さんの世話で大挙して観光バスを連ねて撮影所見学に来ているが、セットへ行くよりも前に、まず所内に祀られた撮影所稲荷(日蓮宗)へ先ず参詣するというのも、常の見学団に見られぬ珍しい風景である。(公開当時のパンフレットより)

 

 大映京都の『日蓮と蒙古大襲来』(監督渡辺邦男)は長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎、淡島千景、黒川弥太郎らのオールスター・キャスト、製作費五億といわれる大作で、撮影所は他の作品をいっさいシャットアウトして、これ一本のかかりきりだ。

 最大の話題は蒙古襲来と神風シーンの特殊撮影。なにしろ十万の蒙古軍がアラシに会い、一夜のうちに海のモクズになるのだからトリックもあの手この手。

 まず蒙古軍、和船など遠近感を出すために四メートルから四十五センチのものまで、大小百五十隻も作った。大型の軍船はモーターで動かす。カイも電気仕掛け、その船に乗る生ゴムの人間も実物そっくり。これをまた電気仕掛けで動かすという細かい工夫までしている。

 この海上シーンは、約六百平方メートルの三角形のプールを使用。アラシは風速四十メートルまで出せる三十馬力の送風機と、波立機で感じを出す。そのほか一度に五トンの水を押出して、怒涛の感じを出す操作をしている。

 軍船は船底にオモリをつけ、針金をはって移動。転覆の場面はあらかじめピアノ線などで逆に船をつるし下げておく。用意万端整ったところで上から雨を降らし、送風機で風を起し、五トンの水をぶっつける。これをカメラは一分間九十六コマという普通の映画の四倍の速さで追っかける。そして、そのフィルムを普通に回せば、一分のものが四分になるわけだ。プール建造費は四千万。「こんなゼイタクな映画ははじめてだ」と渡辺監督もいっている。(スポーツ報知 09/08/58)

 

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[物 語]

 「我、今日より日本の柱とならん!日本の眼目とならん!」十数年にわたる求道の遍歴を終えて。故郷安房の土を踏んだ日蓮は、山頂より海を臨んで力強くこう誓った。

 やがて−鎌倉松葉ケ谷に居をおいた日蓮は、愛弟子日昭を連れ、“南無妙法蓮華経”の旗をかかげて布教に専心した。権力を恐れぬ日蓮である。その論調は痛烈をきわめ、ために迫害が絶えなかったが、その信念は微動だにしなかった。白拍子の吉野ら、帰依者も目立って増えていった。

 日蓮はさらに、心血を注いで著した立正安国論を鎌倉幕府に提出、きびしく為政者の反省を求めた。かねて日蓮を憎む重臣平頼綱は、人心攪乱という口実のもとに捕えて伊豆に流した。が、時の執権補佐、北条時宗は多くの反対を押し切って、その流罪を解いたのだった。

 数年後−日蓮の予言は事実となって現われはじめた。まず、九州博多に世界を席捲する蒙古の使者が到来、また鎌倉では謀反による流血事件が発生した。

 日蓮は、頼綱一派に追われる四条金吾、荻江兄弟をかくまう一方、蒙古船の訪れこそ国難の前兆と、各方面に警告の書を送った。が、再び狂僧として捕えられ、滝の口で斬首にされることになった。今まさに処刑されんとしたとき、凄まじい雷鳴!刑吏の刀は雷光をうけて消し飛んだのである。折りしも時宗の急使比企小次郎がかけつけ、処刑の取止めを命じて、日蓮は改めて佐渡へ流されることになった。

 また、文永十一年夏、蒙古十万の軍船は海を蔽って来寇、まずは壱岐対馬を血祭りにあげ、博多湾へと侵攻してきた。時宗は今こそ偉大なる予言者日蓮を鎌倉へ迎えた。すでに頼綱は狂死していた。

 まさに未曾有の国難である。しかし国民は日蓮、時宗を中心にかたく結束して、数をたのむ蒙古軍の上陸を必死に阻んだ。日蓮は、日昭や新弟子日朗とともに、博多の一角に設けた祈所で、身の危険もかえりみず敵国降伏を祈りつづけた。わが軍はすでにその三割を失い、悲壮の覚悟をもって明日の決戦を待っていた。その夜である、突如として起った大暴風雨。蒙古の軍船は木の葉のごとく翻弄され、ついに残らず博多湾の藻屑と化したのだった。(月刊明星昭和33年11月号より)

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