今年度芸術祭参加作品として、大映からは『歌麿をめぐる五人の女』(木村恵吾監督)『野火』(市川崑監督)『浮草』(小津安二郎監督)の三本が決まっている。これに『貴族の階段』(吉村公三郎監督)『かげろう絵図』(衣笠貞之助監督)を加えた五大作は、作品そのものの出来はもとより、興行的にも期待のもたれるところだ。秋の映画シーズンとはいいながら、これほど変化に富み充実した番組は、近年にない豪華なものである。

 

『かげろう絵図』

 『かげろう絵図』は、衣笠貞之助監督にとっては一昨年の『鳴門秘帖』以来二年振りの時代劇作品である。

 大正末期から四十年来映画を撮り続けて来た同監督の三百本近い作品系列を見る時、時代劇現代劇の比率は略々同数になるが、一般に時代劇の巨匠とうたわれている衣笠監督がまる二年間時代劇を撮らなかったことに、何か深い原因があった、と考えられ易い。

 しかし、衣笠監督はこれに対し「なんとなく東京に居ついてしまった。それに正直な話、現代劇は時代劇に較べて、三割方仕事が楽だ」と答えている。

 ともあれ、二年間時代劇を離れてこれを客観視することが出来た衣笠監督が、いま読書界に一種のブームを作っている松本清張の時代劇推理小説を映画化(清張の時代物では最初の映画化)するという点でどんな成果が現われてくるか興味の持てる作品だといえる。

かって『雪之丞変化』を中学時代に見て大変興味を覚えたという原作者が、いまや世にときめく人気作家となって、その自信作「かげろう絵図」を、その『雪之丞変化』の監督に提供して「あのような面白い時代劇にしていただきたい。料理は一切おまかせします」と委嘱したことに対し、衣笠監督は小説の面白さを映画の面白さへ移しかえるための、若干の脚色を施したが、それが現在まだ東京新聞に連載中の小説であるだけに、かって『月形半平太』や『鳴門秘帖』を殆ど原型をとどめないまでに自由な改変をしたのと較べて、相当原作に忠実な脚色だといえよう。

 物語は、原作者の言によれば「現代の山下事件に似た物語」、すなわち十二代将軍治下に於ける寺社奉行脇坂淡路守の不可解な失踪事件を扱った、江戸城大奥を世界をとするもので、その事件の背後に流れる大奥の紊乱、次代将軍擁立の陰謀、更にこれを糾明しようとする正義派の暗躍が、題名で暗示するような複雑な人間模様の中に、現われかつ消えて、いわば絢爛たるスリラーを構成して行くものである。

 従って、この映画の主演者として、大映の秘蔵っ子ともいうべき市川雷蔵と山本富士子を、この春のブルーリボン受賞以来初の顔合せをさせているが、島田新之助(雷蔵)にしろ、御殿女中として大奥に潜入している登美、富本節の町師匠で新之助の情人豊春(山本二役)ら、正義派の第一線に活躍する人物を主として筋を追うという単純明快で定石的な映画構成をわざとさけている。そして中野石翁(滝沢修)お美代の方(木暮実千代)を中心とする大規模且つ巧妙な陰謀のからくりを、まず画面に浮かび上らせて、正義派の動きがいわば竜車に向う蟷螂の斧的サスペンスを充分にはらんだ後で、これら主人公にこの悪の重圧感をきわめて爽快に吹き飛ばす場を与えているのも、いわゆる時代劇の定石を破ったものといえる。

 今度映画化される部分は、大奥女中菊川(阿井美千子)が証拠隠滅のために、石翁一味に殺される前後を中心として、スリラー的な興味を盛り上げているが、石翁らの陰謀が実を結んで成功寸前という第一のクライマックスでこの代一部は終っている。従って原作者の意図する「下山事件」的な脇坂事件をはじめ、すべての結末は、原作(五百回連載予定)の完結を待って、明春改めて製作される予定お第二部を待たねばならないが、この一篇だけを独立してみても興味深いものがあろう。

 四十年来熟成して来たベテラン中のベテランとしての衣笠監督の手法は、この作品に於ても著しい変貌を見せるとは思えない、無類の構図の美しさの中に芝居を捉えるため、カメラを殆ど定位置のまま動かさないも相変らずである。しかし、その中で主な背景となる江戸城大奥のセットを色彩的にも建築的にも極度の単純化を計り、絢爛たる衣裳の登場人物をより浮き出させている点、そして同じ大映作品『千代田城炎上』で安田公義監督が描いたとは別の面から、大奥の生活の一端に触れている点、雷蔵の新之助を中心とする殺陣場面の新機軸を狙っている点等々、期待すべき個所は必ずしも少ないとはいえない。

 とまれ、時代劇の誕生からその成長とともに歩んできた衣笠貞之助監督が、従来の時代劇の殻をあえて自ら破ろうとする若々しい意欲をもって当っている『かげろう絵図』は、最近進境著しい市川雷蔵、山本富士子ら人気スターを中心に、滝沢修、柳永二郎、木暮実千代、河津清三郎、志村喬、黒川弥太郎らのベテランを配した一見贅沢とも思われるキャストの布置によって、松本清張の味が絢爛たるスリラーとしての映画にどのように移しかえられるか、期待して待つべきものがあろう。(時代劇映画昭和34年10月号より)