秦・始皇帝

1962年11月1日(木)公開/2時間45分大映京都/カラー70ミリ

製作 永田雅一
監督 田中重雄
脚本 八尋不二
撮影 高橋通雄
美術 柴田篤二
照明 久保田行一
録音 長谷川光雄
音楽 伊福部昭
助監督 砂見国博
スチール 板垣公章
出演 勝新太郎(始皇帝)、本郷功次郎(李黒)、山本富士子(朱貴児)、若尾文子(孟姜女)、長谷川一夫(越)、叶順子(香娘)、中村玉緒(蘭英)、川口浩(萬喜良)、川崎敬三(芦生)、宇津井健(太子丹)、大瀬康一(趙の貴公子)、加茂良子(桃花)、弓恵子(青児)、岸正子(宝児)、山田五十鈴(太后)、滝花久子(姜女の母)、浜田ゆう子(紅児)
惹句 『偉大なる暴君、始皇帝の風雲の生涯を描く今世紀最高のドラマ!大映創立20周年記念映画』

昭和37年/1962年「配集トップ5」(配給収入:単位=万円)

1.秦・始皇帝 大映 (50,000)

2.椿三十郎 東宝 (45,010)

3.花と龍 日活 (36,040)

4.キングコング対ゴジラ 東宝 (35,010)

5.宮本武蔵・般若坂の決闘 東映 (30,241)

70ミリ映画第2弾。長城のアップ用に全長6キロ、幅8メートル、高さ8〜10メートルにおよぶセットが作られた。

  

解 説

 『秦・始皇帝』は、『釈迦』についで大映が製作する70ミリ映画の第二作。『釈迦』が昨年11月、歴史的なロードショウが行われて日本映画興行史に画期的な新記録を樹立してより、直ちに第二作の素材が求められ、多くの候補の中から最も70ミリの超大型画面にふさわしいものとしてとりあげられたのが『秦・始皇帝』である。

 秦の始皇帝は、今もなお中国大陸に残る“万里の長城”を建設したということで歴史上有名な人ですが、2500年前の昔に、幾多の大事業をやってのけたことから、ローマ帝国のネロと共に東西の二大暴君とまでいわれている人物。その波乱と風雲に富んだ生涯は、まさに70ミリ映画の素材としてうってつけものといえます。映画は、この始皇帝の偉大な足跡を最も近代的なメカニズムの世界の中に再現しようとするものであり、有名な幾多のエピソード、即ち、瞬く間に広大な中国大陸を平定し、強力な中央集権化を試みた傑出した政治的手腕、数十万の奴隷を酷使した万里の長城の建設、後宮三千の美女を擁した豪華な宮廷生活。焚書坑儒の名を残した言論統制の為の残虐行為、不老長寿の秘薬を求めて全世界に使者を放ったこと等々、あらゆる意味で常識の域を遠くはなれた数々の話が網羅されていることは申すまでもありません。

 ドラマのスケールが大きければ大きいほど製作上の労苦も大変なものがありました。巨大なセットがいくつか築きあげられ、大量の人員を動員しても大モップシーンが幾度か撮影されました。

 永田社長は、この映画の製作に中華民国の中央電影公司に協力を求めるために今年の3月、自ら台湾へ渡って蒋総統をはじめ国府首脳と会談、全面的な協力の約束を得ましたが、この成果は6月に行われた台湾ロケに国府軍3万人を動員し、日本映画史上初めてといわれる大マスシーンの撮影ができたことになって表れました。

 もう一つの記録的な話題は“万里の長城”を再現させるための大セットの建設。「秦・始皇帝」の撮影はあらゆる点で記録破りの大掛かりなものですが、それを数字に表わしてみますと、撮影日数119日、セット数87杯、衣裳点数2万5千点、小道具7万点、戦車数延1千台、エキストラ数延20万人。このように、『秦・始皇帝』は大映が全世界に真価を問う超大作にふさわしく、総てがデラックスであり、またいかに多くの人々の才能と努力が費やされたものであるかが判ると思います。(公開当時のパンフレットより)

   

「秦・始皇帝」の演出を終って

 狙いはひと口にいって英雄の孤独感だ。万里の長城や大運河の建設は、始皇帝がやはり国家百年の計を考えるスケールの大きい政治家だったことを示すものだが、一方ではこのために大きな人間悲劇となってかえってくる。

 彼ほどの偉大な人物でも人の心はどうすることも出来ない英雄の悲劇を、私は娯楽作品として、少なくとも若い世代の人達にも理解し、楽しんでもらえる映画にしようとしたつもりだ。

 70ミリの画面では、とくにスペクタクルシーンを、今までにない迫力とスケールで撮影したが、戦闘場面ではエキストラ3万人を一度に画面におさめるという画期的な試みをやっている。とにかく画面が馬鹿でかいうえに、6本トラックの磁気録音を駆使しているので、よほどのスケールでないと70ミリ映画の特徴は出せない。その点では他の70ミリ映画に劣らないと確信している。

 撮影中に、この映画に対する矛盾や反響にしばしば悩まされたことといえば、暴君始皇帝の人間苦悩だ。彼が世界最初にして最大の万里の長城を築いたことが、結果的には彼の命をも落すことになる。

 それは一代で滅びた始皇帝の半生が物語っているように、人間のもろさというものを痛感させられた。(公開当時のパンフレットより)

    

(パンフレットとチラシ)

 

 

■物 語■

 紀元前230年の中国。周朝衰えて群雄割拠し世は弱肉強食の戦国時代となり、戦禍は果てしなく続いていた。時に若き秦王政は救民救国の理想に燃えて西より立ち上がった。

 紀元前221年、秦の中国統一は成り、世界最初にして最大の帝国が誕生した。若き秦王は自らを始皇帝と名乗り、新たに秦の咸陽を国都と定め、各地の王や富豪、豪族を強制移動させて都造りに専念した。

 戦いは終り、全土に平和がもたらされた今日、始皇帝の偉業は着々と進められていった。中でも豪華を極めた阿呆宮の工事は国民の目をみはらせた。美姫三千を越えるといわれるこの阿呆宮の女たちは全国から選りすぐって集められたが、とりわけ朱貴児という美しい女を始皇帝は愛した。

 燕の国の太子丹は、ひそかに秦への反抗の機会を狙っていた。折しも皇帝の許から亡命してきた礬於期将軍の首と督充の国の地図を皇帝が要求してきたことを知った丹は、刺客荊軻を頼んで策をめぐらした。礬将軍の首と地図を手に荊軻は首都咸陽に乗りこみ、始皇帝に拝謁、地図を前に満足気な表情を示す始皇帝の一瞬の隙をうかがいかくし持った短剣で彼の胸につきつけた。しかし武人の情から、王者に相応しい死に方をさせようという皇帝の所望を聞入れた為に荊軻は皇帝の身をとり逃し、逆にたちまち武官に囲まれてしまった。事終れリと荊軻は自らの胸を開き剣を受けて倒れた。

 計の破れた事を知った太子丹は旧王たちの軍隊を集結させて最後の総攻撃をかけた。三たび四たび両軍の激突がくりかえされたが、連合軍は遂に壊滅、太子丹も始皇帝の戦車の下敷きとなって命をたった。

 大勝を得た始皇帝はこれを機に愈々国内統一と威力を示す膨大な計画を立てた。女子供農民を問わず徴用して官用道路を建設した。始皇帝は、その官用道路を数千人に及ぶ美姫を含む文武百官を従え泰山に向い、その頂上に於て天子が天子たることを天下に示す封禅の儀を行った。しかし、この始皇帝の留守を狙って北域の蛮族は突如として首都咸陽を襲い、手薄な都はたちまち地獄絵を化したが、阿呆宮の一室にあって病の床に伏していた朱貴妃も病躯をおして宮殿を襲撃してきた一族に向ったが、遂に敵の矢に倒れてしまった。

 始皇帝の世紀の大事業 − 秦の国をより悠久の安きにおくために北方の蛮族たちの侵入を防ぐための長城の建設 − はこの時から始まったのである。山も川も野もすべてを長蛇の如き城壁で連ねる万里の長城の建設はまことに難工事であった。幾千、幾万もの人が狩り出され、七年目を迎えてもなお完成し得なかった。

 この頃から国民の間に始皇帝の暴政に対する不満の声がふつふつとして湧いてきた。儒学者干越は、若い儒生万喜良たちを集めて激しく政治の腐敗を説いた。丞相李斯はそんな儒学者を弾圧するため、法令を出して一切の書物を焼き払い儒学者を捕えて生き埋めにしてしまった。

 長城工事は雷神によって一部を破壊される災いなどもあってなかなかに捗らず遂に始皇帝は自ら長城に出向いて陣頭指揮に当った。丞相李斯はこの天災が二度と起きないように人柱を立てることを進言し、妻の孟姜女との新婚の夜に捕えられ今は長城工事の使役にかり出されている万喜良がその人柱として引出されることになった。

 夫の骨が長城の中に埋められているなら、一生その霊は浮かばれないと思った姜女は、長城への長旅に出発した。女の一人旅の難渋を幾度びか味わいつつ彼女はとうとう長城に到達したが、そこに待っていたのは恐ろしい盗賊たちの群だった。あわや暴行されようとした時、屈強の若者が飛出して彼女の危急を救ってくれたが、彼こそかって始皇帝が政王たりし頃の少年旗手李黒少年の成長した姿であった。

 李黒の幼な心に残る皇帝の面影は優しく温か味にあふれた人であった。思い出の中の始皇帝の姿がまことか、人民の怨嗟の的の皇帝が真実か、この目で確かめたいと李黒青年ははるばる訪ねてきたのであった。長城の一部になっている六角堂の壁面に刻まれた万喜良屍之処に孟姜女は頬ずりするように崩れた。孟姜女は城壁におのれの額も砕けよとばかり打ちつけると、突如轟然たる大音響と共に大地震が起り、城壁はどうとばかり崩れ落ちた。

 始皇帝は長城を壊した孟姜女を庇った男を直々に成敗するために呼んだ。意外にその男こそかっての李黒少年ではないか。始皇帝は万感胸に迫る思いで、彼の手をとり、そして再会の引出物に何なりと望みを聞くといった。李黒は即座に、民の声を聞いて欲しいと答え、また姜女の助命を乞うた。李黒の身に代えてもという厳しい嘆願に、皇帝は遂に彼女を許した。大観衆の歓声が爆発した。その歓呼の中に静に瞳をあげた孟姜女は李黒の宝剣で我が胸を貫いた。この時、遥か東海の空をのぞんで立つ始皇帝の許へ反乱軍の襲撃が告げられた。平和は破れ、再び戦いが始まった。

 十数年の夢をかけて今や全く完成した世界最大の長城にひとり立つ孤独の始皇帝。これが人間のむなしさか、これが人間の悲しさか、広大な原野を秋風が粛々と渡る。東方の空を睨んで長城に立ちつくす始皇帝の胸に、再びあの偉大なる夢が沸々と湧き起こってくるのだった。(公開当時のパンフレットより)

 

風は蕭蕭として 易水寒し、壮士一たび去って 復た還らず

 (風はもの寂しく吹き渡り、易水の流れは寒々としている。壮士として私は一たび去れば、二度と還ることはないのだ。)

  

 戦国七雄の時代(およそ、紀元前403年〜紀元前221年)、「秦王政」(のちの秦の始皇帝)は、中国統一をめざし、斉・楚・三普を滅ぼした。やがて、その勢いは燕に迫ろうとしていた。追いつめられた燕の太子「丹」は、秦王政を暗殺しようと考え、「荊軻」を起用する。

 荊軻は静かな文人で、撃剣の達人であった。また、羽声(うせい)と呼ばれる歌を得意としていた。羽声とは澄んだ音で、激しく感情を歌い、聴く人の魂を震わせた、と伝えられている。荊軻には、「高漸離(こうぜんり)」という筑(ちく)の名人である友人がいた。筑とは弦楽器の一種で、弦を竹で撃って演奏したらしい。やはり感情を激しく表現する楽器であった。

 暗殺を承諾した荊軻には、生還の望みがなかった。たとえ、秦王政の暗殺に成功しても、その場で斬り殺される運命にあった。死を覚悟した門出の日、太子丹をはじめ燕の人々はみな白の喪服に身を包み、燕の国境である易水のほとりで最後の宴会をひらいた。「白衣冠にして以て之を送る」と『史記』には書かれている。

 激情が荊軻をつき動かす。わが友、漸離、最後の願いだ。筑を撃ってくれたまえ。おれは羽歌をうたおう。おそらく荊軻はそういったのではないだろうか。立ちあがった荊軻は、高漸離の筑にあわせて、あの有名な「易水歌」をうたった。「風蕭々として 易水寒し 壮士 ひとたび去って 復た還えらず」それを聞いていた人々は、みな嗚咽の声をもらし、その髪は逆立って冠を突いたという。

 暗殺に失敗した荊軻は、秦王政の前で殺される。その後、人々は荊軻の潔い生き方と「易水歌」を永遠に伝えていくことになった。

 

daiei.jpg (1795 バイト)

     

YaL.gif (2580 バイト)

Top page