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         、ドスも無用

 『ある殺し屋』断想

 『ある殺し屋』は、最初、増村監督作品になる筈だった。従って、シナリオは増村と石松愛弘氏と打合せに入った。

 原作の主人公は、新宿の場末にひっそりと在る電気屋の寡黙な男が実は凄腕の殺し屋という設定だった。脚本は雷蔵に合わせて何の変哲もない小料理屋に変えた。増村のアイデアで殺しのテクニックは(針)に決めた。次に、ドラマの進行を並列的にしないで、過去と現在を交錯するように構成した。(このスタイルは、その後の増村作品で多用された。例えば『大地の子守歌』『曽根崎心中』etc)

 シナリオが完成した頃、増村は兼ねてから映画化を希望していた『華岡青洲の妻』を急遽撮ることになり、会社命令で森一生監督にバトン・タッチした(当時の撮影所では、こうした監督と作品の交替は珍しいことではなかった。例えば、山崎豊子原作『白い巨塔』は、増村から山本薩夫監督に。大江健三郎原作『偽大学生』(原題「偽証の時」)は、市川崑監督から増村にというように)。

 秀れた監督は、強烈な個性の持ち主であり、同じ題材を映画にしても、監督によって映画が変る。従って、『ある殺し屋』を増村が撮っていたら、現在私たちが見ていた映画と違った映画になっていたであろう。そのことは、どちらが秀れた映画と云うより、異質な二つの映画が作られたということになる。

 今、改めてこの映画を見ると、森一生監督、撮影の宮川一夫をはじめ、大映京都撮影所の強烈な個性を持つスタッフの中で、時代劇で鍛えられた雷蔵がその実力を伸び伸びと発揮しているのが良く分る。勿論、森一生監督と宮川さんの撮影技術は<手練れ>そのものである。

 雷蔵の『薄桜記』以来、私は森一生監督を尊敬していた。プログラム・ピクチャーであれ、大作であれ、森監督は猛スピードで撮りまくり、きっちり合格点をとる大ベテランとして、映画会社には無くてはならない存在であった。『ある殺し屋』と同様、森監督の実力を遺憾なく発揮した映画に、『駿河遊侠伝』がある。この映画は、所謂、時代劇やくざ映画ではなく、しがない田舎やくざ(勝新太郎)の汗と体臭がスクリーンから発散し、凄まじい迫力で見る者を圧倒する。

 さて、『ある殺し屋』のシナリオ打合せのため私は京都撮影所へ向った。森監督が別の映画の追い込み中なので、夜にでもゆっくり話し合うつもりだった。のんびりと撮影所の庭を歩いていると、休憩中の監督とばったり会った。森さんは矢つぎ早に三つほどシナリオについて質問してきた。私がそれに答えると、「増村君と石松君によろしく。面白いシャシンが出来そうです」と明るく笑った。これで打合せ終了。私は随分多くの映画を作って来たが、こんな超スピードの打合せは初めてだった。私は森監督のシナリオ分析の的確さとスピードに敬服した。

 『ある殺し屋』の成功は、森監督の実力と同時に、世界の名キャメラマン宮川一夫無くしては語れない。宮川さんと私の仕事は、『炎上』『鍵』『破戒』『おとうと』『刺青』『ある殺し屋』『ある殺し屋の鍵』と少ないが、お会いする度に肩を叩いて激励して貰ったり、撮影技術に弱い私の質問にも、『羅生門』や『雨月物語』等の伝説的名シーンについて、丁寧に教えて下さる心やさしい大先輩だった。

 『ある殺し屋』は、森監督も雷蔵も、宮川さん自身も楽しみながら撮った、と語ったことがある。日本映画史に残る大映京都撮影所の製作集団の自信と矜持がうかがえる言葉である。

 

 

 

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