日本映画の悪習に殺された「ある殺し屋」

  作品完成から封切りまでの余裕のなさと画一的宣伝−それが日本映画をどれだけ殺して来たか。大映のゴールデン・ウィーク作品「ある殺し屋」もまさにそれだった。娯楽映画として水準を抜くこの映画がなぜ当らなかったかを考え日本映画の“悪習”根絶への提言とする

ここに邦画沈滞の一因

 昭和四十二年も上半期が終りに近づいてきたが、日本映画の業績は大喜びしていいような状態ではない。もっともっと観客が集るように努力工夫しなければならないあ。にもかかわらず、まだまだ欠けるところが多いようである。

 一社を槍玉にあげるのはお気の毒だが、たいへん適切な一例だからご勘弁ねがうこととして去る四月末からのゴールデン・ウィークの大映は「にせ刑事」と「ある殺し屋」の二本立だった。「にせ刑事」のほうはたびたび試写もおこなわれ、勝新太郎と山本薩夫監督の異色の顔合せというので、宣伝も一応は行きとどいていたようであるが、作品そのものは「大魔神」の宣伝を兼ねたみたいな、およそ山本監督らしからぬコマーシャル・ベースの凡作だった。

 ところが、もう一本の「ある殺し屋」は、二本立といっても「にせ刑事」ほどの前景気もなく、試写もちょぼちょぼとしかおこなわれなかったので、封切してから劇場へ見にいくより仕方ないことになった。そのうちに、アレは面白いゾ、という評判が続々と耳に入って来はじめた。若い映画ファンたちからも、アレは面白いそうですネ、ときかれた。が、もうそのころは、どうにかいいコンディションで見られる封切館での上映はおわりになっていた。

 私に言わせれば、「ある殺し屋」は傑作というほどのことはない。マカロニ・ウエスタンをちょいと拝借したような感じだし、回想形式をなかなかうまく使っているが、市川雷蔵の殺し屋の生活に野川由美子が強引に割り込んでくる部分がくどすぎるし、全体として安手な点も感心できない。が、今日の日本映画の水準からいえば、理屈ぬきに面白く出来ており。森一生監督一生のケッ作などと喜ぶ人物があらわれたのも、微笑ましくうなずける。

 そこで、考えさせられたのは面白いという事実が、あらかじめ一般に浸透していたら、もっとお客が集ったのではないか、ということである。近年の日本映画は、知能指数の低いコメディと、十代でも相手にしないような歌謡映画と、看板女優までハダカにしてうじうじするセックス映画と、斬った張ったのヤクザ映画の四種類が大半を占めており、ある程度まで広い層の観客が楽しめる娯楽映画が意外とすくない。別な論題になるが私はそういう娯楽映画にもっと力をいれることが、日本映画の景気を上昇させる一つの方法だと思っており、一流といわれる監督も気をいれてそういう作品をつくる必要があると主張したいのだが、実情では二流監督さえ生意気にも娯楽映画だと馬鹿にするのだからダメである。

 メロドラマの類にしても、深刻陰性にしないと承知しない。これはつくる側が、そういう性質のものを観客が求めていると考えている結果であろうが、そう思い込むのは時代おくれではないか。今日の観客は、もっと理屈ぬきでスカッと楽しめる娯楽作品を求めはじめている。

 みみっちいリアリズムはテレビに任せろ。そのテレビでも、変に理屈をつけようとする時代劇が、軒なみ低視聴率であてが外れているなかに、近衛十四郎がノンキにあばれる「月影兵庫」シリーズだけが好調とは、何を意味するか。外国映画の場合、マカロニ・ウエスタンがなぜお客を集めるか、考えてみるがよろしい。

 そのマカロニ・ウエスタンの一本が、半年ほど前にロード・ショウで当ったが、大作ならばともかく、わずか一時間二十分ぐらいの安物で、出来ばえも「ある殺し屋」よりはるかにつまらぬ情けないシロモノなのに、堂々?一本立で当ったのである。

 従って「ある殺し屋」も、絶対に面白いという評判さえ立っていれば、一本立で大当りをとれたかもしれない。もちろんこれは冗談で、外国映画と事情がちがう日本映画の興行では、あり得ないことである。が、冗談と笑いとばしていいかどうか。

 「ある殺し屋」の宣伝が足りなかったことについては、いろいろな原因が推測できる。第一には、毎度のことながら完成が封切まぎわで、宣伝関係の人たちにも面白い作品かどうか見当がつかなかったこと。見当がつかなければ、いつもの通りの二本立の一本で、しかも一方に勝新太郎と山本薩夫監督による注目作があるのだから、まアお座なりで片づけてしまおうということになる。見たら面白かったので、あわてて宣伝しようとしても、封切がアサッテではどうにもならない。

 日本映画の沈滞の一因は、この「ある殺し屋」のケースに具体化されている。自転車操業的にトントコつくってトントコ封切してしまう。日本映画の体質改善が論じられたとき、多くの製作者たちが、十分に準備して撮影し、完成してから封切までに余裕をもたせる、と発言した。この常識は、私たちも絶えず馬鹿の一つおぼえみたいにくりかえしているのだが、いまだにあらたまらない。「ある殺し屋」も、その犠牲の一つでしかない。

 宣伝日数のほかに宣伝費の問題もある。さきに挙げたマカロニ・ウエスタンが、つまらない小物のくせに当ったのは、相当な宣伝をしたおかげでもある。が、日本映画の場合、二本立の片割れの安物にデンと宣伝費をつかうなんてことは不可能である。面白いからお金をかけて大いに売ろう、とあわてて方針をかえても、明日か明後日の封切ではどうにもならない。いや、たとえ封切までに日時があっても、これは面白く出来たから方針をかえて大いに金かけてやろう、と決断できた例が、いままでに幾度あったであろう。

 今日のような各社の製作状況では、会社がアテにしている作品でも優秀な面白い出来ばえになることは、容易に望めない。従って、溺れる者は藁をもつかむというコトワザを、いいほうにガメツク生かして、すこしでも面白い作品が出来たら、あらゆる努力と工夫によって、その面白さを広く一般にしらせ、お客をつかむようにしなくては、ジリ貧状態を打開できない。

 もちろん、この場合、面白いかどうかをハッキリと認定しなくてはならない。我田引水や手前ミソで、面白くないものを内輪だけで面白がって宣伝しても、お客は利口だからついてこない。今日、日本映画の観客が減少しているのは、日本映画に対する不信が大きな原因の一つと思うが、その不信を招いた一因は、イタチ式のダマカシ宣伝をつみ重ねたことにあると思う。

 宣伝費の問題に触れたが、じつは宣伝費が決定的な要素ではない。それほどお金を使わなくても、もしその作品がホントに面白いなら、アレは面白いそうだ、という考えを、人びとにうえつける方法はある筈である。その<筈>を現実化するための努力工夫をしなければならない。そして、それが成功し、見たお客が、ホントに面白かったと満足し、そういう満足が重なれば、日本映画に対する信用も回復していく。そうなれば観客もふえてくる。

 日本映画をここまで没落させてしまった過去の慣習のままに処理されている小さなこと(この場合は作品について)を、あらためて考えなおすことが、再建の道へつながっていくのだ、と私は思う。(双葉十三郎「キネマ旬報」67年6月下旬号より)

      

 

 

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