戦後関西歌舞伎の盛衰

武智歌舞伎の誕生

 昭和二十四年十二月の文楽座で、関西実験劇場の公演として、武智鉄二の演出で行われた『熊谷陣屋』と『野崎村』の上演が、所謂《武智歌舞伎》の始まりである。

 「原則的に原作第一主義を採り、悪しき俳優中心主義の仕勝手を整理し、伝承された《型》を検討し批判して取捨して行きたい」と言うのが、「演出者の弁」の要旨で、いずれも原作の浄瑠璃に忠実な演出で、熊谷の「十六年も一昔」は二重に座ったまま、幕切れは、藤の方は弥陀六と上手へ、熊谷は相模と共に花道へ入るといったもので、藤の方の笛で敦盛の影が障子に写る件りでは、狩衣、下げ髪の童子姿を出した。

 熊谷は。まだ二十歳で女形しか演じていなかった鶴之助(富十郎)で、当時あまり台詞をいわせて貰えなかったという十八歳の扇雀(藤十郎)の藤の方などという若手だったのだが、武智・蓑助の指導で立派な演技を見せたという。「野崎村」は、お光は延二郎(延若)、扇のお染、莚蔵(雷蔵)の久松で、フロイト的潜在意識でお光はお染に愛情を感じているので、お光が尼になるという解釈だった。

 第二回は、二十五年五月の文楽座で、このときは井上流の『妹背山道行』が出て(鶴のお三輪)莚蔵時代の雷蔵の求女を井上八千代(先代)が褒め、それが寿海の養子になるきっかけになったという。『俊寛』は、康頼が下手の岩組みから滑り降りて来るという、原作どおりの演出で、延の俊寛はあまりに糸にのらない演技を見せた。『勧進帳』は鶴の弁慶で、能に近い演出だったが、武智の自費公演はここまでで、その後は松竹の興行の中で行われることとなる。

 二十六年五月の文楽座では、扇の玉手、延の合邦の『合邦』に、寿海演出の扇・鶴の『鳥辺山心中』が好評だったが、それを再演した八月の南座を見た祇園の松本佐多女が「高島屋にそのまま」と折紙をつけたという。

 また南座の『恐怖時代』の扇雀の伊織之介を、谷崎潤一郎が「作者のイメージそのまま」といったといわれているが、扇の伊織之介は、二十五年四月の新宿第一の観世栄夫演出、さらに五十六年八月二十六日の武智鉄二古希記念公演で歌右衛門のお銀の方で演じている。

 その後、二十七年一月の中座の、延の『鮨屋』、鶴の『一本刀』、二月中座の延の『引窓』、鶴の『石切梶原』、扇の『鏡獅子』、七月南座の『桜しぐれ』などがあったが、八月大阪歌舞伎座の『勧進帳』をもって関西歌舞伎における《武智歌舞伎》は一応終止符が打たれた。

演劇界00年10月号、大岩精二「二十世紀 歌舞伎の百年」補追篇より