『修善寺物語 (しゅぜんじものがたり)』
◆かいせつ
源頼家の最後を題材とした戯曲で、明治41年秋、岡本綺堂が修善寺を訪れた際、作者不明の修善寺の寺宝・頼家の面を見て生まれた一遍。芸術家の孤高と叙情味が豊かに溶け合った作品である。
明治44年東京明治座で二世市川左団次の夜叉王にて初演され、大変好評を博し、歌舞伎作品としては珍しく各国語に翻訳され、昭和2年にはパリでフランス人俳優によって上演された。
◆ものがたり
修善寺の面作り師夜叉王は、二人の娘、姉桂、妹楓、娘婿・春彦の四人で暮らしていた。姉の桂は美人だが気品が高く、まだ独り身だった。
夜叉王は鎌倉二代将軍頼家に面作りを命じられた。しかし、作る面にはみな死相が漂い、名人夜叉王は自信を失いかけていた。一方、注文した面が、いつまで待っても届かないので、怒った頼家が催促にきて面を渡せないという夜叉王を斬ろうとする。とっさに姉娘の桂が、死相の面の一つを差し出すと、頼家はその出来ばえを褒め、さらに美しい桂を側女に所望して連れ帰り、北条氏の許可も無く、二代目若狭の局の名を与えた。
その夜、北条時政の命を受けた一隊が、入浴中の頼家を襲い暗殺した。桂は、例の頼家の面をつけ、影武者として戦うが、瀕死の傷を受け我家にたどりつく。
血に染まった面をみつめた夜叉王は「いくら作り直しても死相が現れたのは頼家卿の御運だったのだ。神以外に知る由もない人の運命がよみとれたのは、まさに入神の技、やはり夜叉王は天下一じゃのう」と快げに笑い、今まさに死にゆく娘の断末魔の面を写しとろうと筆を走らせるのだった。
◆縁の地・修善寺温泉
修善寺温泉は伊豆半島でも最も歴史のある温泉である。平安時代に弘法大師が開いたと云う修禅寺の歴史と共にある。河原で病気の父親の身体を洗う少年のために、弘法大師が独鈷(とっこ=法具・つえ)を用いて岩を砕くと其処からお湯が湧出した、との伝説がある「独鈷の湯」である。
弘法大師が発見したとされる温泉は、日本各地に存在するが、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの場合もある。静岡県内にはその他の伝説に、伊豆山温泉がある。
毎年7月17日海の日に修善寺温泉街で“頼家”を忍んで仮装行列などが行われる。源氏興亡の歴史をもとに鎌倉二代将軍をはじめ、家臣20人、僧侶や稚児など130人が仮装パレードする「頼家公行列」が練り歩き、平成15年には頼家800年祭が盛大に執り行なわれた。
◆南座の花形歌舞伎
第三の「修善寺」は何と言っても左団次のもので、彼の声色が聞えてこないと寂しくなるくらいものだから、蓑助が正直に万事高島屋でいったのは賢明の処置であり、第三場の幕開きのわびしげな静止の姿など、いろいろの収穫があった。ただ第一場の面をこわしにかかる意気込みは猿之助も蓑助も、本物に遠く及ばず、幕切れは高島屋は非人情、猿之助は感傷たっぷり、蓑助がその中間を行って、僧の読経で幕をおろしたのは、己を知り時代を知るものだと言えるだろう。
扇雀の桂は前の幕と打ってかわって、これは素直な出来であったが、第三場になると悲壮すぎて、人物の掴み方に飛躍があった。莚蔵の楓、鯉昇の春彦はまずまずの無難。三津三郎の金窪は今少し凄味がほしく、大作の僧は騒々しくならないのが取柄。頼家という役は、いつも名優が扮して、そのために戯曲の外へはみ出しているきらいがあったが、延二郎のそれは、その枠の中に収まっているだけでも、近頃の頼家であった。(山本修二)
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