『摂州合邦辻 (せっしゅうがっぽうがつじ)』
◆かいせつ
通称「合邦」、菅専助(すがせんすけ)と若竹笛躬(わかたけふえみ)の合作。初演は人形浄瑠璃で、安永2(1773)年大坂・北堀江座、上方歌舞伎に移植されたのは66年後の天保10(1839)年。
もともと原作は、時代物としては上下二巻(かん)の短いもの。現在上演されるのは二巻目の切、つまり最後の一幕がほとんど、継母の邪恋をテーマにしたこの芝居の背景には、謡曲「弱法師(よろぼし)」や説教節「しんとく丸」「愛護若(あいごのわか)」などをもとにして書かれている。
説教節(仏教を広める為にかたられた、最後に神仏が出てきて、めでたしめでたしとなる話)から始まり江戸時代に流布した物語を歌舞伎に移植したものには、他に「小栗判官」がある。
◆ものがたり
河内の領主・高安通俊は、若く美しい玉手を後妻として迎える。通俊にはすでに、次郎丸、俊徳丸という腹違いの兄弟がいたが、次郎丸は、高安家の跡継ぎに決まっている俊徳丸を殺す陰謀を企んでいる。俊徳丸には浅香姫という相思相愛の恋人がいたが、俊徳丸に向かい恋心をあらわにした玉手は、俊徳丸をだまして毒酒を飲ませ、業病にしてしまう。俊徳丸は病によって醜く変貌した我が身を恥じて家を出奔、落ちぶれた姿となって浅香姫と再会する。その二人に次郎丸の魔の手が迫るが、玉手の父・合邦に助けられ、その庵室にかくまわれる。
やがて、そこにやって来た玉手は、父母の嘆きもかまわず、なおも俊徳丸に言い寄るので、合邦はついに娘を刺す。断末魔の玉手は、俊徳丸への邪恋は、敵の手から俊徳丸を守るためのいつわr恋だったと明かし、わが身の生き血で俊徳丸の病を治して息絶える。
◆俊徳丸伝説と縁の地
俊徳丸にまつわる伝承は、謡曲や説経節の題材になったことからもうかがえるように、かなり古いものであるらしく、室町以前、すでに一般に流布していたようである。大阪府八尾市、高安山麓の山畑地区は、"俊徳丸伝説"で名高いところ。
『俊徳丸はこの地の信吉長者の子で、美しく利発な若者でした。ある時、選ばれて四天王寺の稚児舞楽を演じ、これを見た隣村の蔭山長者の娘と恋に落ち、将来を契る仲になった。ところが、俊徳丸は継母の呪いがもとで失明し、癩に冒され、家を追われて四天王寺境内で物乞いをする身となり果ててしまう。
これを伝え聞いた蔭山長者の娘は、四天王寺に俊徳丸を探し求め、ようやく見つけ出して共に観音菩薩に祈ったところ病は癒え、二人は夫婦となって蔭山長者の家を継ぎ幸せに暮らした。一方、山畑の信吉長者の家は信吉の死後、家運急速に衰え、ついには蔭山長者の施しを受けるまでになったと云う』(八尾市HPより)。
俊徳丸鏡塚石碑と焼香台
山畑地区には「俊徳丸鏡塚」と呼ばれている塚がある。本来は高安古墳群に含まれる横穴式石室古墳であるが、いつしか俊徳丸の伝説と結びつき、石室入口前には上方歌舞伎役者・実川延若(文楽人形のような顔をした個性ある役者)が寄進した焼香台がある。
聖徳太子の開基と伝える閻魔堂(西方寺)は「摂州合邦辻」の舞台となったところ。芝居がかかると、その前に必ず太夫や役者さんたちがお参りする慣わしがある。昭和20年3月に空襲で焼失したが、信者達によって再興されて今日に至っている。
大阪市浪速区下寺3丁目/現在は融通念仏宗西方寺の境内の一角に祀られている。
芝居の主人公「俊徳丸」の難病が治ると云うくだりから病気平癒を祈願して、訪れる人が絶えない。最近、寅=虎=Tigersと、阪神ファンの秘密の祈願所となっているらしい。(寅の年・寅の日・寅の刻の揃った生まれの人の生血を飲ませれば難病が治る比喩から)。芝居の「源氏店」の与三郎には、辰の年、辰の日、辰の刻生まれの手下の生血を飲ませると、切られた傷跡が全快する場面もあるそうだ。
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