再び武智歌舞伎

-二月の南座-

 南座の所謂東西花形歌舞伎は、純然たる武智君演出のものではないが、それを取ってしまったら何も残らぬという事は言える。これについて結論から先に言えば、武智君の演出を受く可き俳優は限度があることで、なまじ多人数の一座は却ってその調和を破ることになる。事実それ等は先輩花形のものを演出する先輩演出家と武智君とは色が違うのでお互いにその方がよい。私は武智歌舞伎の花形と、いささか薹の立った花形を別個の座にすることを提唱する。武智君には武智学校の生徒を教えるだけで充分の仕事がある、又生徒も今の所それだけで精一杯で、そこに純粋さがある。(沼艸雨)

 

 

寿曾我対面(一幕)

工藤館の場

監督 武智鉄二

工藤左衛門祐経 片岡我當
八幡三郎行氏 市川莚蔵
大磯虎 坂東鶴之助
化粧坂少将 中村太郎
喜瀬川亀鶴 片岡秀公
曾我十郎祐成 中村扇雀
曾我五郎時致 実川延二郎
小林朝比奈 坂東蓑助

 

 

『寿曾我対面 (ことぶきそがのたいめん)

◆かいせつ

 鎌倉時代の曾我兄弟(そがきょうだい)による敵討ちに取材した作品で、通称「曽我の対面(そがのたいめん)」、または単に「対面(たいめん)」とよばれている。初演は延宝4年正月(1676年2月)、江戸中村座。

 曾我兄弟が父の敵の工藤祐経を討った事件は、「曾我物語」という物語によって一般に流布し、庶民の支持を受けた。江戸歌舞伎では、毎年正月に曾我兄弟の登場する作品を上演する慣習があり、兄弟が敵の工藤と対面する場面が必ず含まれていた。そのためさまざまな趣向によって、繰り返し上演された「対面」の場面は、登場人物の役柄や扮装などが次第に様式化されていった。現在の「寿曾我対面」は、1885(明治18)年上演時の演出が元になっている。

◆ものがたり

 源頼朝の重臣工藤祐経は富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられることとなり、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎、化粧坂の少将が祝いに駆け付けている。そこへ朝比奈三郎(小林朝比奈)が二人の若者を連れてくる。

 見れば、かつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父の敵とはやる兄弟を朝比奈がなだめ、工藤は、巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与える。富士の巻狩の時に討たれてやろうという工藤の本心の現れであり、それを知った兄弟は再開を約束して別れる。

◆曾我兄弟の仇討ちと「曾我物語」

 建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

 尚、富士の巻狩りの際に起きたこの事件について公式に書かれた文書は「吾妻鏡」以外にない、また「吾妻鏡」に記載されたのも事件後100年近く経ってからといわれているのでリアルタイムな記録ではなく、「真名本曾我物語」の記述に似通った所があるとされている。しかし「吾妻鏡」に記載されていることから、全くの作り話でもない。鎌倉幕府は将軍の膝元で起きた衝撃的なこの事件を意図的に隠そうとした痕跡のあることが分かり、現在様々な憶測を呼んでいる。

 隠されていた史実を物語として世に広めたのは、物語にも登場する虎御前こと虎女だという。物語は彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まり、南北朝時代から室町・戦国時代を通じて語り継がれた。曾我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に広がるが、そこかられはこの物語が語り継ぎで広まっていった様子を検証することができる。

 口承は、主に巫女や瞽女などの女語りで行われたという。やがて能や人形浄瑠璃として上演されるようになり、これが江戸時代になると歌舞伎化されて“曾我もの”の演目として定着した。特に延宝四年正月(1676年2月)に初代市川團十郎が「寿曾我対面」を初演して、ここで演じた曽我五郎が大当した後は、この演目が正月興行には欠かせない狂言となった。 

 

 そうした熱意かが明らかに見られるのが「曾我対面」である。いう所の武智歌舞伎ではなく古典の本道である、現れた演技に於いては不満もあるが、そのつきつめた正確さは清潔な歌舞伎という印象を受ける。あの行方を若い人達に教えたことでも大きな収穫である。素人が何といっても玄人にはかなわぬという一部の思い上がりは改めねばならぬ。

 その証拠として、私は東京明治座での菊五郎劇団の「対面」と比較する。男女蔵は楽屋ばなしで、団十郎から六代目、そして菊五郎劇団に伝わったといい、男女蔵自身も本格のものを教えられたといっている。世間でも恐らくこれを信じるであろうから、これ以外は本筋はないと思わすとしたら大きな問題である。大切な科白廻しにしても、祐成をスケナイという、という事は知っていてもこれが祐成とスケナイの中間に発声する事を知らぬ。又八幡三郎でも、サムローという、女性がいう場合はサムローだが、男性は勿論サブローの強さである筈である。又五郎の「まいりますべえ」でも抑揚が違うし、近江、八幡の灸あてがいずれも同じ丸形であったり、いやはや私等の知ることでさえ無茶である。我々の尊敬する六代目の名を余り傷つけないでもらいたい。

 武智君がこれ等の点に見せている良心は当然の事で、その上に全体を通じて舞台効果というよりも本格に本格にと心がけて、大名も二十名、舞台の奥行も深く、傾城も三人、明治座での幕開きからすぐ工藤の科白になったり、大名が十人等の淋しさとは雲泥の差である。対面等いうものはどんなに派手になってもよいもので、私は今度の興行ではこの対面を第一にとる。

 工藤は我當、なかなか位があって、いつもの口をゆがめる癖も出ず、座頭らしい貫禄もあって先ず我當としても本興行中の秀作である。それからこれは武智君の注文か知らぬが幕切の「裾野で逢おう」が「さらばさらば」になったのはやはり「裾野」の方が強いから私としてはそうしてほしかった。この一ヵ所だけは不賛成である。

 これについで蓑助の朝比奈が亦よい。これはどうしても中軸所の役として、時代離れの馬鹿々々しさも芸の劫で初めて見られるもので、蓑助が此の一座ではやはりこの役所にゆかねばならぬ運命にある訳である。

 十郎の扇雀はよいが、止めるのに一度だけ形の悪るかった所があったが目の付け所が正しく、先にいったスケナイの言い廻しにしても完璧で、あの年としては先ず佳作だが、延二郎の気魄は悪くないが、顎の出すぎがいかにも子供芝居じみた。傾城はやはり立女形という位、大磯の虎という太夫職が身についているのは鶴之助で、一寸反身がいかにもそれを現わしていた。この堂々としていた事は役の性根をよくつかんだからだ。太郎の少将、秀公の亀鶴は綺麗だったが、いずれも対面でなく、どこへ出しても通るというもので、これは曾我だけに通るものでなければならぬ。戸迷いして出て来たようでは困るのだ。鯉昇の近江、莚蔵の八幡はも少し気力がほしかった。

 今度名題になって嵐冠十郎をついだ靖十郎と蓑三郎になった大作の梶原父子は世間ではもっと綺麗な役をと思っているらしいが、なかなかむつかしい此の父子の役には、気の毒ながら、未だしだ。この役が馬鹿にならぬ役だけに、それに取組むことになった両人の為に祝福したい。(沼艸雨)

 

宇治川

振付 井上八千代
竹本連中

腰元千鳥 中村扇雀
梶原源太 市川莚蔵
梶原平次 片岡秀公

 

 

『井上流の舞踊劇』 

 一月の中座に引続いてこの二月も南座で私達若い者を中心に芝居をさして頂いて大へん有難いことに思って居ます。以前と違って自分達で芝居をさして頂くとなりますと、やはり芝居に対する心構へそのものが変って来て、ほんとうに生きた勉強が出来るのです。これまででも勿論勉強はして来ましたが、今から考えますと、まともに勉強とは云えない位で、これ迄のは云はば畳の上の水練の様なものでした。

 扇雀さん、秀公さんと一緒に「宇治川」という舞踊劇を演らせて頂いています。これは去年の五月文楽座の実験劇場のときの「妹背山の道行」と同じ様に井上流の家元さんに教えて頂いたものなのです。昔から祇園から外に出さないと云われている井上流を、二回まで演らして頂いたことは私として大へんな光栄で、是非とも皆様の御期待に副へる様な成績を挙げたいと一生懸命に頑張っています。他の流儀とは違って井上流は舞ですから、とても滋味で、しかも内面的にしっかりしたものを掴んでいないと全然駄目なので随分苦労をしています。順序として文楽座の時のことをお話しますと、あの時は始めてでもありましたがまる一ヶ月の間、毎日夜の十時から二時までぶっつづけに稽古したのでした。憶えにくくて非常に困りましたが、それだけにとても勉強になりました。何しろ井上流は古典に近いので、振りをしていても何だか歌舞伎の型を一つ一つ踊っている様な感じですし、それに、他流の踊りよりも基礎的なものがるので井上流を一度やりますと、他の流儀の踊りを踊っても何だかやさしい感じがして、とても踊りやすいのです。「妹背山」の時は何も分からないままに夢中でうやりましたが、今度は二度目ですから、とても始めの様わけには行きません。何うしても意識して踊ることになるわけで、演っていても我ながら固くなっている様に思へて仕方がありません。

 「宇治川」は「ひらがな盛衰記」の勘当場を舞踊化した様なもので、源太と平次との争いに腰元千鳥の心遣いを配したものなのです。細かいことは今とてもお話ができませんが、私の役の源太は始めから終いまで葛桶に腰をかけたままで振りをするのですから、求女とは全く勝手が違い、劇そのものの性質や内容も違いますから、私として何んな風に出来ているか、まるで見当がつきません。求女では思いがけなくも皆さまから讃めて頂きましたが、それがあるだけに今度の出来が何んな工合か、そんなことまでが気になって仕方がありません。この前は全然始めてのことでしたから、少しでも人様並に出来ますと、それだけでもう皆様から讃めて頂けたのではないでしょうか。それが今度の二度目となりますと、前とは逆に悪い所ばかりが皆様の目につくのではないかと思って、前の時よりももっともっと一生懸命にやっているのですが − 「宇治川」そのものが動きの少い滋味な舞踊で、私の役の源太など十五分間の間じっと腰をかけたままなのです。少しでも気が緩みますとすぐに舞台がダレてしまいますし、芸の未熟さもすぐ目について了うので、私としてとても骨が折れます。よく「妹背山」と何ちらが難しいかと聞かれますが率直に云って難しいのは「妹背山」の方で、之に対して「宇治川」は難しいと云うより演り難い踊りと云う方が適当だと思っています。

 斯して井上流を二度まで演らして頂いて、大へん有難いことに思います。さきも云いましたが井上流には歌舞伎の基本的なものがうまく採り入れてあるので、お蔭で普通の芝居の、例えば二枚目の基本がよく分り、よい勉強になりました。井上流は私ども俳優は一応習って置かなければならないもので、思いがけなくも之を習う機会を二度までも恵まれた私は大へんな幸福者と思って居ります。(市川莚蔵)

「源太勘当(げんたかんどう)

 「源太勘当」は義太夫狂言「ひらかな盛衰記」の二段目。源平合戦・宇治川の先陣争いで有名な梶原源太を主役に、恋人・千鳥をめぐる弟・平次との確執や、先陣争いの真相などが描かれる。

 「宇治川」は井上八千代の振付、これは以前の「お三輪の道行」の好評から考えた事であろうが、井上流の大劇場での限界は「お三輪」までである事を教えた。扇雀の千鳥、莚蔵の源太、秀公の平次、皆悪くはないが、大劇場のものではない。やはり歌舞練場で、選ばれた見物によって静に見る可きものだ。(沼艸雨)

 

 

 

  莚蔵、寿海の養子となるか?

 関西歌舞伎の大立者として壮者も及ばぬ大活躍を続けている寿海丈には後嗣なく、側近者を憂慮させていたが、最近、白井(信)氏らのあっせんで、近頃メキメキと腕を上げて来た若手のホープ市川莚蔵君を養子に迎える案が持ち上り、目下関係者の間で話が進行中といわれる。

 

 

 

 

 花形歌舞伎を見て

 蓑助、菊次郎の補導で所謂武智歌舞伎が名古屋へ初めて来ましたが、私はその舞台を見て、今までにない興奮を覚えました。「樽屋おせん」を除いた昼夜五狂言の中に見る若い人々の舞台は、熱とか意気とかいった生やさしいものではなく、全く蓑助の言葉通り死物ぐるいの舞台で、平常めったに手をたたかない名古屋の見物も、今度は惜しみなく手を叩き、声をかけました。

 これまで度々関西歌舞伎の来演はありましたが、これまで私は延二郎や鶴之助にこれだけのものが出来ると思ってもみず、まして扇雀や太郎に−そして莚蔵といった名には気にもかけてはおりませんでした。

 思えば僅かな年月の間にこれだけに指導された武智氏や蓑助の苦労もさることながら、これらの大役にとりくんだ若い人達の努力には、この世にある讃美の言葉を凡て贈りたいと思います。

 昼夜共、最後に蓑助を始め主な人達が舞台姿のままで挨拶をし、一人々々自分の名と年をいいましたが、舞台では堂々たる富樫やお染を演る人々が、てれたように「満十九歳です。二十一歳です」という度に、客席に「ホウー」という声がおこりました。この年でよくもこれだけに、といった感心と驚きとがこもった声なのです。

 武智氏は最近よく、これらの人々をまるで自分の恋人か娘のように手放しで惚気て居られますが、それも仕方がないでしょう。ただこの惚気が一時の気まぐれに終らず、将来美しい花を咲かせて立派な実をみのらせる様お願いします。

 最後に、私は蓑助が挨拶にいった言葉をそのままこの人達に申しましょう。どうかこれからも何度も何度も来て下さい。そして正しいカットのない芝居を見せて下さい、と。(名古屋 安達史郎)

新しい歌舞伎のために

 前月号荻生田さんの「脇役者をスター級に」はあらゆる意味において全く同感です。名門出でないために一生宝のもちぐされで過さねばならぬのは脇役者の悲劇であり、歌舞伎の悲劇だと思う。この現実を考える時にこれらの封建制度をぬけきった時こそ私達と共に生き得る新しい日本の歌舞伎が生れるのではないだろうか。

 暮の南座を中村吉之丞一座といわれたり、明治座の忠臣蔵にしても無理に“大役はスターに”の観念から(他に適任者があるのに)ミスキャストがあったりして誠に私達には理解しがたい。

 関西では武智歌舞伎が大劇場でも上演されるようになったことは喜ばしいことで、反対者は何のかのというが、莚蔵という人を私達に示してもらっただけでも意義大いにありだ。成太郎は関西らしい点において唯一の女形であるが会社は何故もっと大事にしないのだろうか。彼ほど地の芸が出来る人はそうざらにあるものではないと思う。ジャーナリズムはなによりこうして埋れた人材に対する好意を積極的に示してほしい。その点幕間はその努力がうかがえるが、もっと今まで以上にそういった方面に尽くしてほしい。

 今は中年以上の人が観客の大半だが、あと二十年もたてば私達十代、二十代の人がその大半になるということをお忘れなく。根本的問題において歌舞伎は新しく生きてもらいたい。(高校生、博多 高尾輝光)