鈴ケ森のこと

 

 

 毎年、八月はお休みを頂いておりますが、忰の雷蔵が七年ぶりに舞台を勤めますので、私も久方振りに忰と「鈴ケ森」で共演できるのが一番の楽しみです。

 このたびは私が長兵衛、雷蔵が権八を演らせて頂きます。これは少々昔話になりますが、この長兵衛の役は、先代高島屋市川左団次が自由劇場(明治四十二年十一月)を結成いたしまして、しばらく経ってから、と申しますと、明治四十三年、私が二十五歳の時ですが赤坂溜池に演技座という勉強芝居の道場がありました。現在の東横ホールの様な劇場で、大抵の先輩は、必ずここで勉強したものです。私もその例にもれず先代の権十郎(当時市川権三郎)と一日替わりで長兵衛、権八を演りました。後にもさきにも長兵衛をやったのはこの時だけです。その後、左団次の一座に先代幸四郎がおりました時に、明治座で「大森彦七」を教わったのです。当時は未だ帝劇が開場されておりませんでした。

 その年の五月(明治四十三年)に「大森彦七」(初役)七月に左団次は歌舞伎十八番の「鳴神」を復活上映いたしました。その後の大正三年十月新富座で「鈴ケ森」がでまして左団次が長兵衛、私が権八をつとめまして、以来再三私はこの権八役をいたしておりました。

 私が初めてこの狂言を見ました時は、九代目団十郎の長兵衛、先々代権十郎の権八とおぼえております。左団次、小団次(齋入の弟現在右之助の大祖父にあたる)などが雲助などの御馳走役で出てお客に大受けしたものです。

 尤も地方では年に一度の大一座による大歌舞伎の来演ですから、お客の期待も大きかったので、どこへ回りましても大入のお芝居で、役者衆も軽い気持ちでのびのびやりました。演し物は夏場のことでこの「鈴ケ森」がよくでまして、立回りにはいろいろと趣向工夫をこらしたものです。まあ一例としては、太い丸太棒で立回りを演じて、何かのはずみでその丸太棒を杖がわりにして按摩の格好よろしく、おどけた仕ぐさをしたりして大いに喜ばれましたものです。

 もともと権八という役は女形がやるものでして、先代の岩井半四郎が演りました形が大変よく、現在に踏襲されております。衣裳は、権八が黒と相場が決まっておりますが、五代目菊五郎はヒワ(黄色に少々青みがかった)というものを着用しました。現在の梅幸はこの五代目の系統の衣裳をつかっております。

 高島屋という人は錦絵のコレクターで沢山のものをあつめておりました。たしか、この時が権八役の最後でした。

 それでこのたび、雷蔵の権八も紫を着たらどうかと私や関係者のおすすめもあり、忰にそのことを申しましたら「映画人の私が勝手なことをしてはいけないから」といっておりました。

 実際に過去において、こういう例もあるのだから、現在の照明技術や効果の点からは、この紫の方がずっと引き立つのではないかとおもっております次第です。まあいろいろと御批判もあることでしょうが・・・。

 初めに申しました様に久方振り忰との舞台です。お互いに全く初役同様のこの役を少しでも満足に御覧ねがえるよう演りたくおもっております。( 市川寿海 )