寿海と雷蔵の登場

「番町皿屋敷」と「将軍江戸を去る」

 映画の市川雷蔵は、去年一月東京の「日生劇場」へ出た時、市村竹之丞(中村富十郎)の弁慶で、「勧進帳」の富樫を演じた。ひさびさの舞台ゆえどうかと思ったが、まずおし出しがよくて美貌が光り、せりふも喊声でよくとおって秀逸と推賞した。

 ハンサムでさわやかな富樫という意味では、団十郎につぐものと思い、そののちも彼の舞台復帰を希望したが、十一月の新歌舞伎座へ再び出るのはなによりだ。それに父の寿海も出るのは興味が倍加する。

 第一部に雷蔵は父ゆずりで、岡本綺堂作「番町皿屋敷」の青山播磨を演じるのは、柄と年ごろからいって誠に適切だ。それは寿海がたびたび演じた実績と熟練によって、指導すれば成田屋二代の新しい財産になる。いうまでもなくこれは先代左団次が、大正五年二月本郷座で初演、岡本綺堂が丸本物の「播州皿屋敷」で青山鉄山が、お菊を責め殺す陰惨な時代物を、新解釈によって、鉄山に代る播磨とお菊との純真な恋愛に改め、原作と逆に「男の純情」をねらって劇化した。これが左団次の紳士的人格からずばり的中してヒットとなった。この死後これを寿海が継承して、左団次に似た人格から、純情男播磨が寿海に再現されて、この時代に生きたわけだ。雷蔵にもそうした人間感があるだけに、寿海の教えを守れば必ず成功するはずである。

 なお、お菊は先代松蔦の当り芸だったが、昭和初期、南座で先代左団次の播磨で興行中急病で倒れた時、その日急に、寿海の寿美蔵が代り役に立たされたそうだ。彼は女形も可能なため、代役をしいられただけに、断りきれずに演じて、大変に困った話を私は彼から聞いたことがある。それを書くと長くなるから省くが、こんどこれを朝丘雪路が演じるが、これも寿海について教えを受ければ、雷蔵と好一対になる。さらに雷蔵は、寿海に似ているだけでも、自重、勉強して彼の役々を継承すれば、上方歌舞伎に新しい分野が開けると思う。

 雷蔵は半年前に、私の住んでいる京都の郊外のある古めかしいお寺へ忍者物の撮影に来ていた。それとわかるとそのあたりは大さわぎで、大変な人出だ。僅か数分ですむ仕事にかかわらず、その人気はすばらしかった。そして彼がその寺の塀をのりこえるひとコマがすむと、大勢の撮影陣が彼をとりかこんでつれて帰る豪華さは、私も少し驚いた。が、この人気のあるうちに、局面転換の理由でも、舞台へ出るのは将来のために有利であろう。そしていくどもいうが、寿海の指導第一に進んでほしい。

 第二部の真山青果作「将軍江戸を去る」は、これも先代左団次が昭和九年十一月東京劇場で初演。「慶喜命乞」の続編としてヒットした秀作だ。これを見るたびに、このテーマのよさを思うが、さすがは真山青果だ。この「江戸城明渡」を題材にした作に、高安月郊のものがある。それは明治末期に書かれ、松竹になっては大正七年五月歌舞伎座で初めて出、これも左団次中心で演じたが、古い時代の作とはいえ、単にあの事実の劇化程度であった。が、青果はさすがにそれに終らずに、事実から人間、人間からその心理へと掘り下げていった。特にこの終局の千住大橋で、歩一歩と江戸を去る将軍の心持、その悲哀をねらった舞台化は、いいテーマと思う。「江戸城明渡」の終局では、やはり江戸の町人たちが、将軍が江戸城を明渡して、われわれは助かったが、それにしてもいまごろの将軍様の心持は、どんなものだろうというせりふで幕になったと覚えている。そしてこの町人は先先代段四郎(亡き猿翁の父)で、元来江戸っ子の人ゆえ、下町の人らしく、存外しみじみした実感が出てよかった記憶が残っている。しかし、その場面は昼だし、格別に新味はなかった。それをこの青果作は夜にして、あの橋を見せたシーンのとり方といい、提灯の火といい「場」としても余韻に富む。私の好きな左団次シリーズの一つである。

 寿海のこの主役もみごとに左団次の妙にせまる好演だし、風格も苦悩つづきの将軍らしい。相手の説得する役山岡を雷蔵は、雄弁第一の大役だが、彼の舞台復帰の一つの試みとして十分期待できると思う。(三宅周太郎 公演番付より)

三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう):1892(明治25)年7月22日 - 1967(昭和42)年2月14日は、演劇評論家。兵庫県加古川市生まれ。媚びぬ劇評に徹し、また、文楽の興隆に尽くした。