ご挨拶に代えて

莚蔵改め七代目市川雷蔵

 このたび養子として市川寿海さんの家に入り、同時に市川雷蔵の名を襲がせて頂きましたがそのことにつき色々の方面から御後援たお祝詞を頂き心から感謝しております。この話は去年の十二月、名古屋の御園座へ参りました時に出ましたのが最初で、白井千土地社長さんの御斡旋で纏まったのです。固めの式は四月三十日、故白井さんのお宅で挙げ、六月一日に戎橋のオメガハウスで披露して頂いたのでした。御存知のように父九団次も新しい父も、友に左団次さんのお弟子ですし、今度のことも何か前々からの因縁のように思われて仕方がありません。

 襲ぎました雷蔵と云いますのは代々団十郎の弟子の名で、初代雷蔵は二代目団十郎の高弟四人の中に数えられたほどの人でした。暫などの錦絵が残っているのからほぼ分るように、まづ荒事系の人であったようです。そのあと、二代目は三代目団十郎に、三代目は五代目に、四代目は六代目に、五代目・六代目は九代目さんに、というように代々市川宗家に師事していられたのです。この六代目は中車さんのお弟子の英太郎という人が襲がれたのですが、この方が後に役者をやめられたので暫く雷蔵の名は絶えていたのでした。それで私は七代目に当ります。襲名の披露は、今月の大阪歌舞伎座で昼の稲瀬川勢揃いと、夜の「伊勢音頭」の太々講の中でして頂いております。

 将来は、女方もしたくないというわけではなく、現に今月も「少将滋幹の母」に女方で出ていますが、自分としては斯うして市川家へ入れて頂いたのですし、父(寿海)の芸風をついで、立役で進み、父を始め先輩の方方の御指導に依って、父の名を恥かしめない立派な俳優になりたいと念願して居りますが、それには並み大抵の努力では追付かないことも分っておりますので、一から出直して勉強するつもりでいます。今後とも尚一層の御鞭撻を仰ぎますよう、幾重にもお願い申し上げます。何卒宜しく。

養子のこと「少将滋幹」のこと

市川寿海

 始めに私事を申すのも何ですが、どうしたものか私ども二人の間には子宝が恵まれず、寂しい思いを続けて参りました所、こんど白井信太郎社長さんを始め皆さま方のお力に依り武内さん(九団次)の方と話が纏り、莚蔵君を養子に迎えることになりました。

 こんな嬉しいことはございません。斯うして武内さんの秘蔵っ子を私どもの方へ迎えました以上、これを益々立派な俳優に育て上げますことは、もとより私共の責任でございますが、幸い本人も大いに芸道を励みたいと申して居ります。どうぞ私にも増して莚蔵改め市川雷蔵を御鞭撻御引立て下さいます様、お願い申し上げます。

 さて舞台の方のことを申上げますと、今月は舟橋先生の脚色で谷崎先生の「少将滋幹の母」が出ることになり、私は時平をやって居りますが、この人物は、芝居の方でも原作と同じように才気のある貴公子で、近代的な性格を持った人になっています。

 全体の中心は国経の館の、時平が北の方を連れ去る場面でして、ここは、原作では国経から貰って連れて行くまで北の方の顔を見ていませんが、芝居では、その前に北の方が舞を見せ、時平はその美しさに驚くのです。しかし計画的に最初から貰って帰る気でいることは原作と同じです。連れ帰ったあとは非常に愛するらしいですが、時平は、御簾に隠れている北の方を引出すのではなく、座に連なっているのを国経から渡されるので、無理に連れ去りますのは、花道へかかってからの仕料なのです。

 芝居の全体を言いますと、この場の前後に時平館の場があり、始めの場は友達のお公卿さんたちとの噂話、後の場は菅公の霊の祟りで時平が狂乱する場面です。最後に滋幹が母の北の方に逢う所で芝居は終りますが、御覧の通り王朝時代の気分劇というより、かなり劇的な、一貫した筋で書かれていますので、芝居としても面白く見て頂けるでしょう。

 衣裳や装置も忠実に考証されていて、中には東京から取寄せたものもありますが、大部分は新調のものばかりです。全部本式で、指貫の下の方を膨らませるのにも、下に下袴を穿くなど色々と心を遣ってあります。

 音楽は邦楽で、洋楽は殆ど使っていません。洋楽の方が王朝時代の気分を出すのに楽か知れませんが、従来の邦楽に雅楽を加え、唄も長唄をさまざまに工夫して、洋楽以上の効果を挙げるよう努められました。三月東京の「源氏物語」では清元を使ったそうですが、この芝居では全部長唄で、ただ節付に清元風を取入れた程度です。

 台詞は全部現代語で、勿論舟橋先生の脚本の通りです。現代語といっても、歌舞伎を何処かに基本にして言うところに苦心があるわけで、「源氏」の時のことも参考にして、出来るだけこなれたセリフにすることに努力しました。耳障りな感じにならなければ幸いです。

 これからはこうした狂言もだんだん出ることと思はれますから、何よりも言葉の研究が大切だと思って居ります。

第一幕 藤原時平の館(右より)

中将の君 上村吉弥
右大将定国 実川延二郎
薄雪の君 実川延太郎
式部大輔 嵐吉三郎
小宰相 市川雷蔵
さくら納言 中村太郎

雷蔵は七代目それとも八代目・・・ クリック!

 

 

花のある役者

権藤芳一

 二十六年五月、文楽座で上演された“花形歌舞伎”公演のうち「鳥辺山心中」は市川寿海が指導に当たり、鶴之助の半九郎、扇雀のお染で演じられた。その時、莚蔵はお花の役で一緒に出演していた。かねて、その性格と才能を認めていた寿海は、莚蔵を自分の養子にしたいと考えていた。

 同年配の御曹子連に伍して、ようやく世間に認められ、その将来を嘱望されてきた秘蔵の息子をいま手放すことは、九団次にとっては忍びがたいことであったにちがいない。しかし、一生九団次の子供ですごすより、寿海の養子になることが、この世界ではどれだけ有利であるか、それはいうまでもないことである。九団次夫妻は涙をのんで愛する息子のために同意し、白井信太郎氏の媒酌で養子縁組が成立し、六月の大阪歌舞伎座の「白浪五人男」稲勢川勢揃いの場の「赤星十三郎」で、その披露が行なわれた。かくして八代目市川雷蔵が誕生した。

 当時彼は、幸運をつかんだ“時の人”として演劇ジャーナリズムを沸かした。彼の生活は一変した。今や彼は梨園の長老市川寿海の御曹子となった。最初は武智歌舞伎に協力的であった松竹も、扇雀、鶴之助の人気上昇とともに関西劇壇での武智鉄二の影響力の増大を恐れ、若手俳優と第一線役者たちとの確執も目立つようになったため、武智に対する態度を急速に硬貨するようになってきた時期でもあった。

  

 

五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする