武智歌舞伎から銀

 

 歌舞伎の本城にあって時々映画に出演する人々では、市川猿之助などは古いほうである。戦前『川中島』や『日輪』などの作品があり、早くから映画に関心を示していた。戦後、段四郎もちょくちょく、映画にひっぱり出されているが、映画出演はお道楽乃至は内職程度を出ていない。

 同じように、歌舞伎からの出張出演にしても、海老蔵や幸四郎、松緑などとなると、映画のほうでも最初からこの人々の人気で売ろうという企画を立てている。『花の生涯』『忠臣蔵』『荒木又右衛門』の幸四郎、『江戸の夕映え』『江島生島』の海老蔵、松緑などがそうである。この三人のなかで、一番映画で成功しているのは幸四郎である。歌舞伎の人たちが映画に出る場合、第一に考えることは、歌舞伎の形式的な演技と映画の自然的な演技とのへだたりということであろうと想像するのだが、その点、幸四郎はこの両者を巧みに混合して、自然な動きのなかに、自ら高い格調をにじませて成功している。松緑も『江戸の夕映え』では闊達自在な動きをして一応成功していたが、今度の『江島生島』ではどうであろうか。海老蔵は舞台の遠目で見る水もしたたる美男ぶりが売物の一つであるだけに、カメラの遠慮ないクローズアップは彼にとって映画が舞台よりも何割方かの損になっている。演技も少々固くなっていたが、それがこんどの第二回作品『江島生島』では、どんな風にときほぐされて来ているかが期待される。

 海老蔵・幸四郎の映画出演に続いて、関西歌舞伎では扇雀・鶴之助の人気者が映画で進出して来た。扇雀は、女形としての無類の美しさと色気とを舞台で買われただけに、映画は女形を必要としないから、これも何割方かの損をしている。色若衆に扮しても、女形役者に扮しても、舞台の人気にまさる人気の沸き立つ道理はないのである。といって、立役の偉丈夫にもなりきれないうらみがある。父の鴈治郎の映画出演の噂があるが、映画での白塗りが無理であるとすれば、どういう役柄で出演するのか。研究課題であろう。鶴之助も、素や舞台で見るよりも、映画では彼の六頭身位の顔の大きさが醜く目立つので損をしている。映画の根底にあるものが、結局は冷酷なリアリズムだということを、形式美に生きる歌舞伎の人たちはまず考えてかからねばならないのではなかろうか。

 その点、まだ年の若い錦之助や雷蔵は、舞台からといってもまだ人気も演技も固定しないうちの映画入りで、映画の水にもすぐなじみ、映画の人となりきる覚悟もたのもしく、本筋の映画スタアとしての成長に期待が持てる。雷蔵は、『新・平家物語』の若い清盛で好演そて映画に地盤を作ってしまった。錦之助は人気は圧倒的だが、前髪若衆の魅力が、少女歌劇の男役のそれに通じるものがあって、ミーハー的人気の域を出ていない。錦之助ブームは中村時蔵一家に映画ブームをもたらし、加津雄の映画入りや、映画への一家総出演といったさわぎを起している。

 更にまた伏見扇太郎(中村又一)や高倉一郎といった若手の進出ともなっている。伏見扇太郎はまだ錦之助の亜流を踏むにとどまっているが、高倉一郎は名題まで行っただけに幾分骨があり、期待されそうである。『たけくらべ』に正太郎の役で出演していた染五郎のほうが目立たぬながら実のある仕事をしていた。

 俳優の交流ばかりでなく、その他色々な点で歌舞伎と映画との接近は考えられるが、歌舞伎俳優の映画出演が出演料稼ぎのためばかりでなく、映画のため、或は、歌舞伎のための本質的な課題を持つものになって貰いたいものである。

 m (55年12月発行)

あった。