紫香・太郎・莚蔵・鯉昇 

 紫香、太郎、莚蔵、鯉昇については、四人が近頃結成した脚本朗読を基本とした研究団体“つくし会”を通じて見る外はないのである。

 科白一つ満足にいえない俳優、脚本の読み方一つ知らぬ俳優の惨憺たる敗北は、歌舞伎護持の責任ある若手の奮起をうながして、既に数回の公開を積んだ事は、一応賞すべき反省である。

 この中心になっている以上の四人については、語る可き材料を余り持ち合していないが、気付いた事を二、三書いて見る。

 最年長の紫香は二十三で、中村紫仙の息である。本舞台の上では三人の内一番役がつかないで余り目立たない存在である。つくし会の試演に於ける「対面」の朝比奈、「五人男」の南郷からおして見ると、やはり舞台での経験の浅さが目立って、他の者におくれて、徒らに生々しい科白に終っていた。舞台では「勧進帳」の番卒を見ているが、最も勉強しなければならぬのは紫香である。

 太郎は中村成太郎の息で二十二才、比較的早くから舞台に立っているので、四、五年前の女形で、棒のような無感覚な所が漸くとれて、腰元は腰元、女郎は女郎として、一先ず此の年齢の役としての水準には達している。科白にしても身分相応のことは出来ている。つくし会での「対面」の五郎では、役柄でないだけに嫌に力みすぎたが、その気合は物凄く、十郎や祐経の科白の間に息をつめて保っていたのは此の人の真剣さの現れで、将来女形か二枚目に進むのだろうが、鶴之助のような天才的な面がないだけに、その成長は相当の時を要するであろうが、その功の成った時は今迄に少ない、小細工をしない、大まかな女形、若衆としては延二郎につぐのがこの人だと私は見ている。しかしこれはあく迄本人の勉強次第という注釈が必要である。

 次の莚蔵は市川九団次の息で十九才、九団次の粘っこさや、科白のなまり等もなく、最も素直な素質を持って、科白の点に於いては四人中最も優れた感覚と表現を持っている。この人も女形に進んでいるが、つくし会での八汐や「対面」の十郎は、研究が行き届いて、むつかしい二つの役をよくして、殊に十郎のふっくらした味は捨て難く、歌舞伎味濃厚だった。これ迄も舞台は見ているが、その後は特に注意して、最近は九月南座の「先代萩」幕開きの腰元に注目したが、これは失敗だった。体の構えがなっていず、一緒に出ていた腰元皆悪く、松鶴のみがさすがに光っていた。一同警護している腰元になっていないのだ。松鶴の目のつけ所、薙刀の持ち方、これは出来ている。恐ろしい経験の差である。莚蔵に於いてはまだまだ舞台は若い。顔もよく、科白もいいのだから、もう少しの事で見られる程度になるのだ。それから進歩は早い。この及第点までは早く達しなければならぬ。

 鯉昇は嵐吉三郎の息で十九才、最年少だが早く舞台に立って、色々な役をやっているのと、立役だけに、つくし会でも、祐経や、夜叉王で、座頭格に見られている。これも太郎と同じく、今の年齢の役は一応やりこなして四人中第一の芸格をもっているが、これという仕出かした役はまだない。父の吉三郎が器用に纏まっているのと違って、大間な味が完成された暁は思わぬ大物になる閃きがある。これには芸力を内に蓄積さす修練がなくてはその成果は期し得られない。

 四人は各自、同じような芸歴、環境にあって、年も近い。それが一致して研究しているということは何よりで、これが実を結んだ場合は他のメンバーと共に歌舞伎の大きな推進力となる事は必定で、それには先輩への謙虚、正しい脚本の読み、出来るだけ立稽古をする事、批判をよく聞くこと、こうしたことを重ねる内には本興行に一幕加えられることも、放送等も考慮されることだろう。そうした時に自信を持つ反面、慢心を警戒することによって有終の美が成るのである。

 能の世阿弥は

 「初心忘るべからず」 
 「時々初心忘るべからず」
 「老後初心忘るべからず」

といった。

 これは四人に対してそのまま言いたいことである。 (沼雨)

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