「平家女護島」のみで、原稿の枚数をずいぶん食ってしまいました。「妹背の道行」と「勧進帳」については簡単に触れておきます。

 「妹背の道行」は京の井上八千代師匠の指導で、前述のとおり、井上流の大変めずらしい振りがついていました。大体の根幹をなすものは人形ぶりと能楽形式の加味なのですが、これを従来行われている既定の振付から見ると、その陰影の深さと、その情感の豊かさとにおいて、比較にならないほど面白いものでした。若い役者たちのよき経験になったことはもちろん、今後、商業劇場での演出においても、十分参考にすべきものと考えます。

 特に「星の光に、顔と顔」で待合いになるところの求女と橘姫、「どんな仰せ」でが変った振りを加えるところ、「仲をへだてて立柳」で同じく待合せになり、求女と橘姫の間へお三輪が小田巻を投げるところ、「その色によく」で三人とも型袖を脱いで手踊りになるところ、「知らずしてしるしの糸筋を」でお三輪が舞台上手へ寝たまま転んで行く技巧など、すべて大変変っていて面白うございました。ただ、最後の花道でお三輪が、左手を額に当てたまま引っ込んだのは、どうした表現なのでしょうか。振付の常識からすれば、額に手を当てる動作は「屈託」または「もの案じ」を意味します。若し、そうだとすれば、この場の情熱的焦慮に逆上しているお三輪としては、多少矛盾しているように受けとれました。井上師匠におたずねしたいと思っています。

 演技では、莚蔵の求女が正に優秀でした。あの顔立ちの佳さが、六分の近代味と四分の古典味とを併せ融溶させている点、近ごろの若い人として珍重すべき「顔」です。さらに、あの形のよさとイキのよさとに至っては、実に思いもかけぬ拾いものでした。幕間の廊下で、この莚蔵の立派さを褒めましたところ、武智さんも、これだけは第一級品ですと、自画自賛していましたが、全く私も同感です。少し極論すれば、今年度に入っての大阪歌舞伎全体を通じても、これほど興奮させられた演技は始めてだったとさえいえます。今後とも、私はこの人の舞台を、特に大きい期待で注目しましょう。

 いずれにしても、今度の第二回若手歌舞伎では、この「妹背の道行」の面白さと、この莚蔵の求女の立派さとを、何よりの収穫と喜びたいと思います。

 「勧進帳」では、従来よりも能の本行に近づけた個所が多々あるそうですが、能楽に不案内の私には武智、蓑助両氏の説明を首肯するほかありませんでした。ただ、それにしても、それらは結局、第二次的な改訂で、それよりも今度では「方々は何ゆえに」における弁慶、その他に見られる従来の誤演を是正した意図を認めるべきでしょう。

 七代目団十郎の初演以来、この「勧進帳」の演出については、多くの疑点が指摘されて来ています。現に小山内薫などでさえ、この一幕は全部やり直す必要があると述べているほどです。今度の「勧進帳」は前述のとおり、それらの要望に対して、或る程度の解答を示し得ましたが、さらに、富樫の心理的処置など、なお曖昧な段階で残されているものもあります。この点、相手が武智さんだけに、将来の再演を待ちましょう。ただこれも、相手が武智さんだけに、弁慶と義経との衆道関係に触れた解釈でもあるのだろうか、と楽しんでいましたが、それは、幸か不幸か、ありませんでした。

 延二郎の富樫は最初の名乗りからワキ座へおさまるあたり、形の卓れていた点を買いますが、鶴之助の弁慶とともに、台詞の語尾に力の籠らないのが、芸の輪郭を弱体化させました。秀公の義経は神妙。四天王では太郎の伊勢三郎、番卒では靖十郎などが、それぞれ役の構えを心得ていたようで、その努力を褒めたいと思います。

 もう一つ、最後に、全体的な観後感を申し上げますと、前の第一回にしろ、今度の第二回にしろ、「武智歌舞伎」が、その理論の舞台的実験のために、若い子供役者たちを試験管に投げ込むリトマス試験紙のような役目に使っている形。もちろん、それが若い役者に十分の勉強になることは認めますが、時には、そのリトマス試験紙にされながらオドオドしている姿に、ほのかな憐憫の情をもよおさせることです。時折、子供役者が可哀そうに見えることです。これは、私だけの思い過ごしかも知れませんが、それが「武智歌舞伎」の後味を、なんとなく悪くさせていることです。そんな感じを受けるのも、私としては事実なのです。