莚蔵・太郎・鯉昇・靖十郎たち

 関西歌舞伎の二十台の若い人たちによって結成された“つくし会”がすでに数回の試演会を行なって、どうやら恰好がついて来たことは非常に喜ばしいことだが、いつか私が本誌に書いたように、“つくし会”の人々の勉強ぶりが単に先輩連の見よう見真似であってはならない。あくまで本格的な芸の勉強でなければならぬ。それには充分に歌舞伎の基礎的学問を身につけておかねば、ただ型を覚え、脚本を乱読したところで何のためにもならない。然るにこの若い人たちをして歌舞伎狂言のむつかしさ、深さ、おもしろさを教え込ませ、いまさらに芸の修業の生やさしいものでないことを体験させてくれたのが、こんどの武智プロデューサーによる実験劇場の“歌舞伎”なのである。

 事実そのはげしい稽古ぶりをしばしば見たが、武智プロデューサーも、協同演出の坂東蓑助君も共に一生懸命だったし、稽古を受けている俳優連も死物狂いで、見ていて実に感動したのである。こんなにはげしい熱心な稽古をどこかで見たことがあるだろうか。発声の一つ、一つにもダメが出て大へんなもので、こんな稽古を受ける若い人たちの仕合せを考えると、関西歌舞伎の前途はまことに頼もしいものだと思う。

 さて、こんどの公演に参加した延二郎、鶴之助、扇雀の三曹子はさておいて、われらの“つくし会”の連中四人について少し書いてみたい。

 数回の公演で、芝居にやや自信のついたこれらの者が、この公演でどんな効果をあげてくれるか、いつもの脚本朗読でも、立稽古式でもない本格的公演に、しかも大役を振りあてられたのだから欣喜雀躍は当然のことだし、何とかこれで認められようとのいい意味での野心もあろうし、日々の稽古にそれを思わせるものがあるが、前記の三人とちがって、吉三郎の伜の鯉昇、成太郎の伜太郎、九団次の伜莚蔵は、父の地位からも平素大した役にも恵まれず、歌舞伎の封建性に封じられた形だったのだが、“つくし会”によってどうなり芝居が出来るのは何といってもうれしいに違いなかろうし、巨頭相ついで逝き、後続者難をかこつ歌舞伎界の危機にのぞんで結成されたのもチャンスを掴んだわけで、靖十郎など、吉右衛門の弟子で十年も苦労してはいても、容易に存在を認められることのないのが、こんな好機にめぐり合ったのだから本人の心持は正に“天に昇る”というところであろう。

 “つくし会”結成以来因縁浅からぬ私は第一回公演以来これらの者たちの精進ぶりを見て来ているが、鯉昇でも、太郎、莚蔵なども若いだけに熱心なことは人一倍強いが、これまで大役を受ける折の無かった者ばかりなので、先輩によって教えられる型のみは知っていても、役の性根とか、劇の構成などまで究める余裕のないのは事実で、舞台の上でもただ形のみ見せればいいといったふうに取れる点が無いでもなかったようだが、幾度か回を重ねるにつれ、勉強も亦本格的になって来た。そこへこんどの公演なので、一層勉強心に拍車をかけられたのは事実であろう。殊に歌舞伎研究の主といわれる武智鉄二氏、俳優の歌舞伎博士の坂東蓑助氏の二人によってさんざん叩き込まれるのだから、これで会得しなければ本人達が生まれ方を後悔するほかあるまい。

 鯉昇でも太郎でも莚蔵でも、ついこの間子供でうろうろしていたのが、今日いい青年になっているのだから月日の経つのは早いが、歌舞伎の世界は十年一日の如くで、そんなに名優は続出しないし、むしろ次々と“名優格”の人たちが亡くなって心細い限りの現状なのだから、彼等の時代はやがてすぐやって来るのだ。

 稽古場で指導者から、「熊谷陣屋」と「野崎村」の二つの狂言の劇的構成、時代考証、役の性根などを詳しく説明を聞いて、今更この二つの狂言の内容をはじめて知った連中ばかりなのだから歌舞伎知識はまだまだである。それだけに未完成品のこれらの者をよく指導して一廉の名優とさせるべく鞭撻すべき立場の人の責任も重いが、興味もおのずから起きるわけである。

 「熊谷陣屋」において太郎が相模を、鯉昇が弥陀六を、靖十郎が梶原を、また「野崎村」で、靖十郎が久作を、鯉昇が小助を、莚蔵が久松を演じるが、いづれもの出来栄えを期待して楽しみだが、靖十郎の久作は、過ぐる日の“つくし会”の試演会の立稽古で見ており、その時感心して、いい指導者によって磨かれたらものになろうと感じただけに、こんどはこれに興味を抱いている。太郎の「陣屋」の相模と鯉昇んお弥陀六など果してどんな演技を見せてくれるか、畏友武智氏と、親友蓑助君の並々ならぬ努力に絶対信頼してみんなの力闘を祈っているが、この興行が幸いにもすばらしくヒットして“三越歌舞伎”のそれのごとく“若手歌舞伎”復活の機運をつくり出してくれるならば、関係者の喜び之に過ぎるものはない。(菱田 正男)

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