升屋 稽古の時、映画演劇アカデミーの研究生が見学に来て終りまで見ていた。質問して来たので経歴を訊いたら、一度も歌舞伎を見たことがないという人で、何も判らんが何かあるものだと思った、といっていた。これまで歌舞伎は自分達と何の繋がりもないと思っていたのに、これを見て、歌舞伎の世界が離れたものでないということがわかり、何か打たれるものを感じたしい。

 蓑助 その時、演技が落ちたのをズバリ指摘されましたね。それが、こちらが舞台見てああ気が抜けたとハラハラしている時と丁度同じだったので感心しました。息使いなど、その要所は新劇の方とやはり同じことなのですね。

 戸部 若い人にはよく判るのではありませんか。野崎の返しで、お光が尼になってからは、あれは武智演出の神髄ですね。

 蓑助 あの演出には負けた。

 北岸 熊谷をザンバラの有髪の僧にして弥陀六を「心の還俗」から坊主頭にしたのと、両花道の引っ込みにして、喜びの藤の方と弥陀六を上手仮花道へ、悲しみの熊谷と相模を本花道へ連れ立たしたのが誰にもわかるものだ。

 大西 あの幕切れの、両花道を使った引き込みは昔からあった型ですか。

 武智 いや、あれは私が考えたのです。 

 戸部 おききしたいのは、原作復帰が現代精神にどうつながるのかということです。

 武智 いろんなリアリズムの方法を通して、一つの時代的真実を追究するとき、はじめて現代にアピールするものが出て来る。僕はそう思っています。

 戸部 それで、こんどのでは・・・。

 武智 やっぱりそれが出ていると思います。

 山本 それより戸部君はどう思っていられるか。我々はそれが訊きたいね。

 戸部 野崎には出ていると思います。それは役者の生活と近いからでしょう。

 武智 ええ、つまり技術的に征服し易いから。稽古の間は世話の技術がのみこめなくて弱ったが、一旦わかってみるとこの方はたやすい。

 大西 若い人々に従来の歌舞伎の技術を根底から叩き直すということは一応成功していると思いますが、その技術が自分のものになるやならずに、演出者の難しい注文が課せられているというところに問題があるかも知れませんね。しかし「野崎村」の方では一応纏まっていて、充分楽しめたと思います。

 井上 私の感想をいうなら、今までのと比べると確かに面白いが、併しそんなら播磨屋を今後全く見たくないかといえば、そうではない。

 山本 陣屋の方は勉強になりました。それから野崎の方は楽しく見た。野崎は狂言のよいことより、演出理論がぴったりしていたから。難しい理論がそのまま出ているときは未だ駄目で、それが隠れているときが本当の武智歌舞伎だ。

 武智 フロイド的で、観者の深層心理に訴えるつもりでいたんです。

 菱田 今までの上演は時間の都合ばかりで端場を食ったり、省略を多くして、筋を通すことすら考えなかったのを、こんどのねらいの原作に忠実な上演で、未熟な若手なのに或る程度見られるということになりました。一幕完全な上演で、実によくわかる。インテリにも満足して貰えたでしょうし、大衆にも面白がられたでしょう。

 北岸 能を見て、訳が判らずに、ただ有難がっている人がいます。判らんからなお有難いといった気持、それと似たものが歌舞伎にもあったが、こんどは違います。

 沼 歌舞伎や能の雰囲気に酔っていたのです。

 大西 筋を通すだけなら他にもやる人があるでしょうが、それをこういう解釈であるべきだと知らしたのは武智君の功績です。

 升屋 無自覚で丸ごとやったのとは違う。技術的に云えば勿論播磨屋の方がいいでしょうが、今度の演出を見たあとでは、播磨屋のに空虚を感ずるだろう。

 山口 丸本に帰ることは、義太夫節の歌詞に依ることになるが、それに武智解釈がつく、忌憚なく言って私はそこに疑問を持ちます。

 武智 それは何も。元来歌舞伎オリジンの作には、作者が俳優の注文を容れて出来たものが多い。それで個々の狂言についてどこまで作者のイメージを貫いているか、俳優の注文によって作者の人間像が潰れていないか、それが疑問だと思います。それで丸本によってリアリズムの手法でやったのが私の歌舞伎だと思って頂きたいのです。

 戸部 戸板君のいう丸本歌舞伎と丸本とは違います。

 武智 それは承知しているのです。ただ実際問題として丸本より他に拠り所がない。他に作者の考えたものの手がかりがないのです。

 山口 原作によるということは、つまり原作に盲従することと同じと解するのですが。

 武智 ええ、全面的に服従するのです。

 山本 それはよく判る。そこで作者のイメージは丸本によるとして、それを生身の役者にやらせるとき、それが・・・。

 山口 いや、丸本と歌舞伎との混同を考えねばならぬ。已むを得ぬ妥協があることを認めねばならぬのじゃないですか。例えば先ほど話に出た「満足や」という義経の詞を歌舞伎では「満足々々」とやる。あすこに歌舞伎としての必然性を認めるんだが・・・。

 武智 ええ、併しあすこに従来の歌舞伎では「爺よ爺よ」という詞が挿入されるようになっているのでこわれたのです。私の考えではこの入れ言は役者の技術が低下したから必要になって来たので、演技力の優れた俳優ならきっとただ「満足や」だけで充分見物を納得させるだけの芝居ができたと思います。

 山本 しかし、こんどはレディ・メードのセリフ廻しでないところが案外まずいね。大事なところが破綻をきたしている。まあ若い人たちだからそう問題にすることはないが。

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