「若手歌舞伎の印象」

 恥しい話だけれど私は歌舞伎というものは、ほんの僅かしか見た事が無いので、座談会にも出席して予備知識を得、尚疑問の点は坂東蓑助さんに尋ねた。だから実際は歌舞伎通の人から見ると私の考え方は間違いだと思われるかも知れないが、種々論議されて上演の運びとなった「若手歌舞伎」の印象を、思った儘書く事に決めた。

 封建性の濃い古い伝承を尊重されている歌舞伎の形なり約束からは、原作に忠実に演ずる事も冒険なら、第一現在の歌舞伎の上層部から見たら、及びもつかぬ若手の起用も、確かに実験劇場公演に値する。然し通で無い私でさえ、舞台に於ける出演者の若さ、柄の弱さ、大きさ等は事実未だ未だの感じではあるが、「演らしたら演れる意気」が、人々の中にあるのを感じて嬉しく思った。台詞も余程たたき込まれた様子で、呼吸の合いも良いには良いが、重みが無いのはやはりこの世界独自の辛酸から自然に加わる苦労の貫禄に迄、至らない途中の人達である事を示している。

 蓑助さんの話では平常女形の人達が主だそうだが、立役もなかなかどうして立派である。けれどそれにはそれで、鶴之助の直実は重みを加えようときばっている感じで、どうしても台詞が呻いているようで聞きとり難い。名台詞と聞いた「十六年は一と昔」の件りも、分らぬ中に終っていた。延二郎の義経は貫禄に乏しく、台詞も流れ気味、扇雀、太郎は両々良い。花道の引っ込みは争えず小さい感じ、野崎村の扇雀は印象に残る。帰途友達に会ったら、「扇雀なんか見違える程巧くなった」等言っていた。

 最後に悪印象を一つ、私自身もこの答えを頂きたいと希望するものだが、野崎村の段は悲劇で涙に終ると言う。私もその積りで、さぞかし遠い時代の人情味に溢れたいい別れの幕切れをを予想していたが、紫香が愛嬌を振りまき、然も観客はそれを喜んで盛んに屋号が飛び、笑声が湧く、予想と違った明るい幕切れを見せて貰った。

 私は思うのだが、この幕切れで果して野崎村の段を貫く人間味やイデオロギーが、又歌舞伎を理解しようと見に来た、初めての人達がこれらをどう解釈するだろうか、こういう演技の自由が人物、舞台を問わず、否、歌舞伎にはこんな事があるのかとか、こうした事もされて良い等という観念を与えはしないか、観客への迎合というのか、悲劇は悲劇として終らせるのが当然と考える私が間違っているのか、何はあれこの一事、非常に興味を唆るものである。

 古い形、約束に捕われず新鮮の気を振りまく一演技かも知れないが、常識からも本来の歌舞伎に於いても、許されるべきものでないと思う、各々解釈の仕方は異なるだろうが、実験劇場の意義は元よりこうした事が狙いではない。私は面白く笑えなかった。大役と改革的雰囲気に張り切った余りならば好ましいが、もし気分的な甘さや、おどけ心から演じたとするならば、真面目な意味での各人の努力も、真面目な観客の期待も、すべてその一点で無駄に近づくのではなかろうか。     (小倉真喜子)

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