寿海、雷蔵父子顔合せについて

=読売新聞記者劇評=

 劇場の格式にとらわれずつぎからつぎへ“新しい大衆演劇”の上演を企画する新歌舞伎座では、今月は市川雷蔵が六年ぶりに舞台をつとめている。

 父の市川寿海、淡島千景、それに新派からの応援という豪華な顔ぶれで、雷蔵は山崎豊子作、辻久一脚色・演出「ぼんち」。川口松太郎構成「祭ばやし」。川口松太郎作・演出「浮名の渡り鳥」の三本出ずめ、ファンにはたいへんなごちそうである。

 「ぼんち」はすでに雷蔵が映画で評判をとったものだが、劇化のほうは脚色が原作の物語りだけを忠実に追いすぎたきらいがあり、四幕の長い舞台がいささか単調に終わる。

 タビの老舗船場の河内屋は代々が婿養子をむかえ、女性天下で家をもりたててきたが、喜久治(雷蔵)の代になってはじめて弘子(安部陽子)を嫁にむかえた。しかし、家風にあわないと祖母(英太郎)はむりやり弘子を離縁してしまう。それからの喜久治は、養子の父の遺言もあって“気根性”のある男になるため女道楽に身を入れるようになる。

 単調な芝居の運びではあるが、こうした特殊な河内屋の家風と喜久治のおかれている奇妙な環境とはうまく描かれていた。結局、ものたりなさを感じさせるのは、喜久治と四人の女、ぽん太(淡島千景)、お福(霧立のぼる)、小りん(桜緋紗子)、比沙子(渡辺千世)との話が、ぽん太以外はごくさらりとかたづけられているからだ。この芝居に彼女らが手もちぶさたではおもしろさというものがでない。達者な女優をそろえているだけに惜しまれる。

 「浮名の渡り鳥」は雷蔵と寿海の顔合せが売りもの。役者あがりのやくざ(蝶次)は、ひさしぶりに父親(寿海)といっしょの舞台に立とうと江戸へかえってくるが、かれにうらみのある土地のやくざたちがいろいろ難くせをつけて邪魔を入れる。

 そこで蝶次は大あばれしてうるさい奴らをかたづけ、望みの舞台を踏む。いかにもご都合主義の物語だが、雷蔵と寿海の関係を役者の親子にしたてたあたり気の利いた取り合わせで、劇中劇に「鈴ケ森」をだし、寿海の長兵衛、雷蔵の権八で華やかさをあおろうというねらいも生きていた。

 この二つの劇と一つの舞踊ショーを通じて、雷蔵の芝居はどちらかといえば“ソツのない程度”の出来でしかない。たいていこうした種類の舞台になると看板スターの登場で、ぱっと花が咲いたように場内がうきうきするものだが、かれにはそれもなく、寿海の貫禄と淡島の色気などのなかで、静かな演技を見せるだけ。

 案外さらりと幕がおりて、意外な感じを抱かせるのが人気者市川雷蔵の舞台出演である。