僕の知っているこの役者は、先代左団次一座の二枚目という地点から始まっている。先代松蔦とのコンビで見せた寿美蔵のいくつかの役には、独自な味があり、十五代羽左衛門とちがう性質の若さは、つねに鮮明な印象を与えた。だから戦後大阪へ移籍し、寿三郎と共にいわゆる「双寿」の時代を作った彼に、羽左張りのレパートリーが企画されるのは必ずしも妥当ではないと思っている。

 しかし、依然として舞台に漲る若々しさは珍重すべきだし、押しつけがましくない熱演も好意がもてる。寿海という隠居名はふさわしくないが、今は関西歌舞伎の長老であり、碁敵にも比すべき猿之助と東西で最高の椅子にすわったのだから、感慨深いものがあろう。

 尤もこの頃は時々「鎌三」の佐々木、「山門」の五右衛門のような役を演じることもある。そういう時に、僕は今は亡びた中芝居のなつかしい気分を彼の動作から発見する。寿海の青春が、まだどこかに残っているらしい。(戸板康次)


@代数
A本名 太田照三
B生年月日 明治19年7月12日
C屋号 成田屋
D紋とかえ紋 三本丸の中に寿の海老
E現住所 大阪市南区竹屋町17の2
F父の名と職業 市川力蔵・裁縫師
G出生地 東京都中央区日本橋蛎殻町
H学歴
I初舞台の時・所・役 明治27年5月明治座織姫繻子縁色糸のお酌豆太
J所属劇団 関西歌舞伎
K宗教 日蓮宗
L家族の数 3
M芸歴 
  市川小団次に9才で入門、初舞台市川高丸。明治36年1月、明治座にて市川小満之助と改名。明治37五代目市川寿美蔵の養子となり登升と改名。明治39年5月、名題昇進。明治40年3月、明治座「墨ぬり女」にて六代目市川寿美蔵襲名。明治41年3月、二代目左団次と共に演劇改革に尽くす。明治42年11月有楽座に於いて左団次と共に自由劇場創立し、大正10年童話劇団を設立。小寿々女座主宰となり明治座で旗上げ公演。大正12年9月関東大震災により中絶後、京都に移住。11月南座に市川左団次一座と公演。大正13年8月、左団次と共に北支満州巡業。
 大正末期より昭和10年迄、左団次一座で修業。昭和10年8月東宝劇団に参加、新歌舞伎を創む。昭和13年、退団して松竹に復帰。昭和15年猿之助と共に新歌舞伎の研究に努力し、新鋭劇団を創立。昭和21年関西に移住。昭和24年2月市川寿海を襲名。昭和25年2月「毎日演技賞」、昭和28年「芸術院賞」
N舞踊・音曲の師匠 花柳寿童、先代藤間勘右衛門
O趣味 茶道、絵画
P身長 5尺25寸()
Q体重 14貫
R甘辛 少々
S足袋の文数 9・7文

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