『 平家女護島(へいけ にょごがしま)

◆解説

 近松門左衛門作の人形浄瑠璃。『平家物語』や謡曲『俊寛』を題材にして、そこに大幅に改編を加えている。享保4(1719)年8月12日に大阪竹本座で初演。その後まもなく歌舞伎にも移されている。

 二段目の「鳥羽の作り道の場、鬼界ケ島」が有名で、現在ではこの段のみが『俊寛』(しゅんかん)の通称で上演される。

◆あらすじ

 鹿ヶ谷の陰謀を企て平家転覆を企んだ俊寛・成経・康頼の三人は、鬼界ヶ島に流され早三年。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならなかった。食べるあてもなく、たまにくる九州からの船に硫黄を売ったり、海草を食べたりして食をつないでいた。

 物語は、この地に住む海女千鳥と結婚することを成経が打ち明けるところから始まる。島にきて以来の絶望的な状況の中起こった、数少ない幸福な出来事を歓びあう三人と千鳥。

 そこへ都からの船が現れ、中から上使の妹尾が降りてくる。妹尾は彼らの流罪が恩赦されたことを伝える。建礼門院が懐妊したため、平清盛が恩赦を出したのだ。夢かと喜びあう三人だったが、妹尾が読み上げる赦免状の中に、なぜか俊寛の名前だけ無い。俊寛は赦免状を手に取り何度も内容を確認するが、やはり自分の名前だけが見当たらない。 俊寛は清盛から目をかけられていたにも関わらず裏切ったので、清盛の俊寛に対する怨みは深く、それゆえ俊寛だけが恩赦を受けられなかったのだ。そう妹尾が憎々しげに伝える。

 喜びの後の突然の暗転に打ちひしがれて俊寛は泣き叫ぶ。だがそこへ一人の上使の基康が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りたことを伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた平重盛が別個に俊寛にも赦免状を書いていたのだ。 これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、妹尾がそれを止める。妹尾がまたも憎々しげに言うには、重盛の赦免状に「三人を船に乗せる」と書いてある以上、四人目に当たる千鳥は乗せることはできないというのだ。

 再び嘆きあう三人と千鳥に、妹尾が追い撃ちをかける。妹尾が言うには、俊寛が流されている間に、清盛の命により俊寛の妻の東屋が殺されてしまったのだ。しかも東屋を斬り捨てたのは妹尾であるという。 都で妻と再び暮らす。そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、絶望に打ちひしがれる。妻のない都にもはや何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから、かわりに千鳥を船に乗せてやるよう妹尾に訴える。 しかし妹尾はこれを拒絶し、俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾を斬り殺す。そして妹尾を殺した罪により自分は流罪を続けるから、かわりに千鳥を船に乗せるよう、基康に頼む。

 こうして千鳥の乗船がかない、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。船の手綱をたぐりよせ、船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。 孤独への不安と絶望に叫び出し、船を追うが波に阻まれる。船が見えなくなるまで、船に声をかけ続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へと登り、船の行方を追い続ける。 ついに船がみえなくなる。そして俊寛の絶望的な叫びとともに幕となる。

◆縁の地

 鬼界ヶ島(きかいがしま) 1177年の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。薩摩国に属す。

『平家物語』によると島の様子は次の通りである。

 舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪をさげない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えおり、硫黄がたくさんあるのでこの島を硫黄島ともいう。

 翌1178年に康頼、成経は赦免され京に帰るが、俊寛のみは赦されず、ひとり島に残され悲嘆のうちに死んだ。鬼界ヶ島の現在の場所ははっきりしないが、薩南諸島の以下の島のいずれかと考えられている。

硫黄島 - 1995年5月に建てられた俊寛の銅像がある。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。
喜界島 - 俊寛の墓と銅像がある。墓を調査した人類学者の鈴木尚によると、出土した骨は面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。
伊王島 - 俊寛の墓がある。