中村錦之助か萬屋錦之介か

 平成九年三月十日錦之助が死去して、「中村錦之助」か「萬屋錦之介」か、「どちらの名前を強く記憶しているかで、その人の年齢がわかるかもしれない」という(朝日新聞「天声人語」欄)。私などは、どちらでもない。錦之助といえば、三代目時蔵の子の歌舞伎の花形役者だったことが思い出されるだけである。その頃、時蔵の子息には種太郎(後の歌昇)・梅枝(後の時蔵)・錦之助らの兄弟があって、そのうちでもっとも芸達者で、嘱望されていたのが錦之助だった。それが昭和二十八年映画界に入ってしまう。その後の映画俳優としての錦之助には、中村錦之助であろうが、萬屋錦之介であろうが、何の関心もない。

 思えば、その頃は映画界に実に多くの有望な歌舞伎俳優が引き抜かれいったことを苦々しく思い出すばかりである。上方歌舞伎を背負って立つべき先代鴈治郎が一時映画入りしたのには驚きとともに滑稽感を覚えたものである。さすがに間もなく歌舞伎に復帰したが、市川九団次の子息の莚蔵が市川寿海の養子となって雷蔵を名乗り、名門の将来を約束されることにも一因があったかと思うが、嵐吉三郎の子息の鯉昇が映画界に入り、北上弥太朗として活躍するに至り、それに続いて雷蔵まで映画界入りをしてしまう。雷蔵はそのまま早く世を去り、北上弥太朗の方は、はるか後に、映画がすっり斜陽の芸能になってしまってから歌舞伎に復帰し、吉三郎を襲名し、かけがけのない上方芝居の脇役となっていたが、それも亡くなってしまった。

 錦之助の場合は、歌舞伎界の痛手には違いなかったが、まだ東京の歌舞伎には、いくらもそれに代わるべき役者が陸続と輩出したのだから、それほど大きな影響は与えなかった。それにひきかえ武智歌舞伎で延二郎(後の延若)・鶴之助(今の富十郎)・扇雀(今の鴈治郎)らに伍して活躍していた、雷蔵や鯉昇が映画界に去ってしまったことは、上方歌舞伎の将来に大きな穴をあけてしまったのが残念である。今の鴈治郎が近松歌舞伎に熱を入れても、脇役の貧弱なことが致命傷となっていることは余りにも多い。錦之助の死去の新聞報道を見て、またしても私は上方歌舞伎に思いを寄せ、あの頃のことを思って痛恨の感を拭いえないのである。

(97年12月和泉書院発行)