一昨年のことだったか、月も日も忘れたが、突然、鯉昇君が僕の社へ現れた。あまりにも予期せざる来訪客なので、何ごとやらんと応接室へ通してみると、今度、大阪の極く若い役者ばかりで「つくし会」という勉強会をこしらえたから、僕に、その顧問を引受けてくれというのである。だんだん事情を聞いてみると、どうやら、それは、若い役者諸君の自発的な企てのようであり、その点は大いに賛成なのだが、ただ、顧問に予定されている僕以外の顔ぶれが、すべて松竹関係の人達ばかりだったので、その中へ僕だけひとり加わることは、世の誤解を招くおそれもあり、少々困ると思ったので、蔭ながらの助力なら惜しまないけれど、表向き顧問とやらに名を列ねることだけは御勘弁願いたいと、その場でお断りした。いま思い出すと、そんなことがあった。

 この時、鯉昇君のほかに、もう二人、同じく背広姿の若い人がいた。三人のうち鯉昇君のみは初舞台のころから一応よく知っているが、他の二人は一向に顔見知りがない。鯉昇君の紹介で、始めてそれが中村太郎君と市川莚蔵君だと知れたわけだが、なるほど、そういわれてみると、太郎君のほうは以前に、お父さんの成太郎と一緒の席で、一度会ったようでもあり、その舞台顔も記憶も多少よみがえって来たが、莚蔵君とは全くこの時が初対面だった。

 第一、莚蔵などといわれても、それは九団次の昔の名前とのみで、今どき、そんな芸名の役者がいたことすら知らなかった。もちろん、それまでにも、莚蔵君の舞台は再三見ているはずなのだろうが、とかく、覚えのよくない僕のことだから、一向にそれと気づかなかったに違いない。いづれにしても、この初対面の席における莚蔵君の印象は、僕にとって、さして注意を惹くほどの興趣ではなかった。顔立ちといったところで、特に取り立てるほどの好男子でなく、立ち居の動作も、どこやら、ノロそうで鮮明さを欠くし、それに、背広の肩のあたりに妙に不恰好な丸味が出ていて、それが少々ばかり猫背のようにも見えた(もし、この僕の観察が事実と相違するなら、平に御容赦)。強いていえば、鯉昇君や太郎君よりも、どっか寡黙で、その寡黙のうちに、まだ乳ッ気の抜け切っていないような一種のウブさと、同時にどっか人を喰ったようなクソ落ちつきとが同居している感じがあった。それが僅かに、印象といえば、印象といえる程度に過ぎなかった。

 その後、莚蔵君の舞台ぶりを、こちらから意識して見物したのは、第一回の「武智歌舞伎」における「野崎」の久松だった。(みわ註:49年12月7日から十日間、大阪文楽座での公演、莚蔵は「熊谷」の敦盛と「野崎村」の久松を演じた)この久松で、何よりも意外だったのは、莚蔵君の舞台顔が、近ごろの若い人にしては珍らしく、白粉のよくのる顔だということ。いいかえれば、初対面の時の素顔に比べて、舞台顔のほうが遥かに引立って見えたことなのである。この発見だけは、思はぬ拾いものの感じで、少なからず僕を喜ばせてくれた。だが、それにしても結局、莚蔵君の久松では、この舞台顔の一点を買うのみで、演技の総評からすれば、まだまだ醤油の沁み込んでない筍の水ッぽさだった。顔に惚れて60点は与え得ても、70点とはゆかぬ久松だった。