さらに、この時、僕は蓑助君のはなしを聞きながら、不思議に、死んだ織田作之助君のことを思い出していた。それは織田君の性格と、いま聞いている莚蔵君のそれとの間に、一脈相通ずるものがあるまいか。いい換えれば、織田君も少年時代は、この莚蔵君のような、表面はどこやら人を喰ったノンビリ型でいて、その実、どうして腹の底はなかなかの利かン気者だったのではあるまいか。フトそんなことが連想されたからなのである。

 僕の知っている生前の織田君は、たしかにそれ式の型だった。例えば、社へ遊びに来ると、一応「今日は」の挨拶はする。挨拶が済めば、そのあとは自分勝手なことを、ひとりペラペラしゃべって、アッハッハと大きい声で笑って、そして、知らぬ間にどっかへ煙のごとく消えてしまう織田君だった。最初の「今日は」はあるが、最後の「さようなら」のない男だった。それでいて、そうした非礼の憎めぬところに、彼の人徳があったわけだが、とにかく、それは人を喰ったものだった。ことのついでに、もう一つ例をあげると、織田君は他人の書いたものを、常に平気で剽窃していた。その被害者は知人間にも沢山あった。現に僕なども、少々ながら、その被害者の一人なのだが、それで、彼の友達仲間では彼のことを「石川五右衛門」と呼んでいた。他人のものを手当たり次第に「盗む」からなのである。だが、当の御本人はアッハッハと笑って、一向に平気だった。正に、ノンビリ型の図太さである。

 はなしが横道へ外れたが、僕は、なにも死んだ織田作之助の性格と、少年俳優市川莚蔵のそれとが、すっかり同型だといっているのではない。ただ、僕が、蓑助君から聞いた感想に僕自身の第一印象を加えて帰納し得た莚蔵君の性格が、もし、多少とも真実に近いというなら、表面はノンビリ型でいて、その実、腹の底は利かぬ図太さだという一つの共通点で、莚蔵君の噂ばなしから、フト織田作之助を思い出したまでに過ぎない。だから、もし逆に、莚蔵君に対する僕の岡目八目が全くのオカド違いだというなら、筵蔵から織田君への僕の連想は、正に、ただ今のお笑い草として、即刻、取消していただくことにする。

 いづれにしても、織田作之助のように早く死んでしまっては困るが、莚蔵君も、この若くして逝った同郷の奇才にあやかる意味でも今後大いに頑張ってほしいと思う。(みわ註:織田作之助は47年1月10日34歳の若さで亡くなっている)大いに頑張り得るだけの素質のあることは、今度の求女の傑作ぶりで、一応テスト済みなのだから・・・。

 以上、僕は、手をかえ品をかえ、少々莚蔵君を褒め過ぎたきらいがあるかも知れない。元来、僕は人事百般、惚れ込んだが最後、テもなく興奮してしまって、直ぐ大上段から褒めちぎる悪い癖があるから、この辺で自重しておくに限る。それでなくとも、若い人を無暗に持ち上げるのは心得ごとだ。

 はなしは違うが、近ごろの鶴之助君など、少し持ち上げられ過ぎた裏の反動が来ているのではないか。現に、この莚蔵君にしても、求女は大成功だったけれど、「俊寛」での千鳥も「勧進帳」での四天王も、役者が変ったほどよくなかったのだから、なおさら危険である。

 或は、この求女のみの成功は、莚蔵のまぐれ当りホームランだったのかも知れない。否、むしろ、この場合、そう審判しておくほうが無難のようだ。まかり違ったところで、誤審の責任はアンパイヤー一人の問題で済むからなのである。

皆さん、大阪に現れた「今週の明星」市川莚蔵君を、永い眼で見まもってやって下さい。

50年7月発行 幕間別冊「歌舞伎大放送」より

同誌に ★私達の言葉 −柄にないがやってみたい役− があり 一、その役者 二、その理由

市川莚蔵 一、「茨木」の綱  二、豪放な、顔のつくりのきついものが演ってみたいのです。

“「茨木」の綱”は『大江山酒天童子』で勝新太郎が演じた渡辺綱のことです。