(56年3月発行 梨の花演劇誌 No.1)

 

kaka梶原平三誉石切・梶原平三景時

 
直侍・片岡直次郎 番町皿屋敷・青山播磨 あかね染・半七(三勝・富十郎)
 
 名門の出身でないために、数々の辛労を重ねたが、遂に関西歌舞伎の座頭として今日の地位を占めるに至った市川寿海という人は、梨園稀に見る好紳士である。かって、先代左団次のもとにあって二枚目の役どころで、亡き先代松蔦とのコンビはあまりにも有名だった。その後ある事情のため東宝に奔り、活路を見出したが、これも永続きせず、再び松竹へ復帰し関西歌舞伎に移ったが、温厚な人柄、円満な人柄は、延若、梅玉ら、亡きあとの、関西歌舞伎を守り、今は亡き寿三郎と双寿時代を築いたが、豊田屋の死と共に、押しも押されもせぬ地位につき、関西歌舞伎俳優協会長に推された。

 一昨年芸術院賞を受け、次期の芸術院会員の候補者の呼声高い。まことにめぐまれた晩年だが、一昨年から神経痛を患い、いまだに全快しないので、往年の若さと迫力に欠けるうらみがあるが、その持味はますます磨きがかかって来るようで、成田屋寿海の本領はさらに期待してよいと思う。

 関西歌舞伎というところは、どうも問題の多い所である。一昨年九月以来、数々のもめごとが続出し、会長としての寿海を焦々させたようだが、こうした場合には温厚人だけに、よし快刀乱麻を断つような解決法はのぞまれなくとも、将来の安定のため、このへんで協会の強化の手を打つべきではなかろうか。是非ともそうありたいと期待する。

 「頼朝の死」の将軍頼家、「元禄忠臣蔵」お浜御殿の徳川綱豊などは、この十八番に数えてよく、最近くり返し上演されるようだが、寿海も亦好きな役どころだろう。今日までに立役、二枚目、女形というような役を演って来ているだけに決して無駄な努力はしていない。この豊満な経験を生かして後進の養成に努め、関西の総帥としての面目を充分に発揮してもらいたい。

(菱田雅夫)

 

元禄忠臣蔵・徳川綱豊

近江源氏・佐々木盛綱
 
成田屋 太田照三 升田屋 太田吉哉
 明治19年7月12日日本橋蠣殻町に出生。同27年5月市川小団次の門に入り、市川高丸と名乗り明治座「織姫繻子縁色糸」お酌豆太郎で初舞台。

 同36年1月新富座「曽我石段」の八幡に扮し、小満之助と改名。同38年6月五世寿美蔵の養子となり、宮戸座「文覚」の斉藤藤五を勤め昇升と改名、同40年3月明治座「黒塗り女」の書き下ろしで花野を勤め六代目寿美蔵を襲名。

 昭和24年2月大阪歌舞伎座「助六」「大森彦六」を勤めて三代目市川寿海襲名す。昭和24年度毎日演劇賞、昭和27年度芸術院賞受賞。

市川九団次の息、昭和6年8月29日生。同21年11月大阪歌舞伎座「中山七里」の娘お花を勤めて莚蔵と名乗りは初舞台。

 同26年6月寿海の養子となり、同座「白浪五人男」の赤星十三郎を勤め八代目市川雷蔵襲名。

 

 
 市川九団次の子としてあまりパッとした存在でもなかった市川莚蔵が、武智鉄二の実験劇場歌舞伎に引っぱり出され、「妹背山道行」の求女を演じて一躍認められて以来好調を続け、市川寿海の養嗣子に迎えられ雷蔵となってからますます光彩を放ち、鶴之助、扇雀とならんで、関西歌舞伎の若手三羽烏として、よき将来を嘱望されていたのだったが、考えるところあって映画界に投じ、大映専属のスターとして銀幕の人気者になった。

 悧巧な彼だけに、永久に舞台に起たぬことはあるまいから、機を見て、舞台へ帰るだろうし、又その日こそ関西歌舞伎にとって一服の清涼剤となることであろう。

 養父寿海と同様温厚な人柄だが、その裡にひそむ烈々たる闘志は将来関西歌舞伎を背負ってくれることを物語っている。

 

道行恋苧環・求女

新平家物語・平六