昼の部は、今回これに舞踊詩『競華扇』十二景を添えているのは、その中へ寿海が光源氏まがいの貴人となって現われにしても、雷蔵も訥升、朝丘も、紫も、テレビ・タレントなみになったようで、あまり拍手の送れるものではなかった。

雷蔵の三枝喬之助、寿海の牢奉行石出帯刀

 夜のほうが充実していた。何よりも『獄門帖』の再演とは、よい掘り出し物であった。この初演はもう十四年も昔のことになる。二十七年九月に寿海が東京で 勘三郎と共にやったのを翌月大阪で鴈治郎と出したのだった。もとより、牢奉行が大火に際して英断で囚人の釈放を決行し、その信頼が酬われて囚人たちが翌朝ちゃんと戻って来たという人間性尊重の心への感激、また無実の罪で死が決っていた一人の囚人が、犯さなかった密通と主殺しとを、その釈放された一夜のうちに、はじめて、実際にやってしまうという意地の強さなど、内容に対する感銘も大きかったが、何よりも伝馬町大牢の火災に猛焔を表現する仕掛けの大がかりに驚かされたものだった。

 こんども多分初演と同じスタッフの村山知義・装置伊藤熹朔・照明篠木佐夫に、大阪で仕掛物の至宝松井正三も加わっているのだろうが、何と いっても今の新歌舞伎座の舞台が奥も狭く、廻りもないことだし、防火の取締規制が厳しくなった不自由さからか、往年のような大仕掛への驚きは可成り減ってはいたが、主演の寿海の石出帯刀は、背こそ少し円くなったとはいえ、裸馬で引廻しの上、磔が決っている雷蔵の喬之助の顔を見て死相が全く現われていないことを不審にがる、その寿海の顔立ちにこそ、帯刀その人の良識を表わすものと思われたり、文字通り火急の場に臨んでテキパキと指令を発し、自分には権限外の破錠、囚人の仮釈放を決断するほどの意志の確かさ、囚人たちが戻って来たのに喜びを隠せず、温かい配慮をしてやる人間性を、やはり寿海ほどに表現できる俳優は他にないと思わせた。

 雷蔵の喬之助も悪くない。はじめに無実を訴える気力が少し足りぬように思われたが、釈放の際、重罪人とて互いに腕を鎖でつながれた相手の男が、焼跡を逃れる途中にもぐうたらしかいわぬのに腹を立て、拾った刀で男の腕を切ってしまう気の強さが、旧主の家へたどりつき、不義で相対死をとげたはずの奥方が果たして生きていたのを見届け、女を抱いて密通を実現してしまう執念をよく現わしていた。藤間紫の奥方も、色気も十分であった。

 だが、廻りの演者が初演より大分おちるのか、猛火が刻々に迫って来る大牢のあわただしさも、その前、『四千両』を模した大牢内の異風描写も、物足りぬところが多かった。