「関西歌舞伎」という名称が、実際に用いられ始めたのは、いつの頃からだったろう −。先代鴈治郎在世中にも使われていたような記憶はあるが、その頃は稀に「関西大歌舞伎」というような文字が使われていたことはあっても、近頃のように毎興行そんな呼び方の見られなかったことだけは確かである。寧ろ、東京から大一座を迎えたときに、「東京大歌舞伎」と言ったり、或は東京から二三の幹部俳優を加えたときに「東西合同大歌舞伎」と言ったりしていた場合の方が多かった。それが先代鴈治郎没後、俄かに上方歌舞伎の影が薄くなり、戦後梅玉が逝き、更に延若が亡くなる前後には、いつしか上方歌舞伎の顔触れも一変して、東京の色彩が濃くなり、その頃から漸く「関西歌舞伎」の名称が、当然のように目だって使われ出したのである。

 つまり先代鴈治郎在世中は、何といっても、関西歌舞伎の屋台骨がしっかりしていたので、特別に「関西歌舞伎」という名称を必要としなかったわけで、却って東京俳優を迎える場合に「東京歌舞伎」と呼んで、上方歌舞伎との区別を明らかにしていたような状態だった。

 それがここ十数年の間に死んで行った先代鴈治郎・魁車・梅玉・延若・寿三郎といった純上方俳優に代って、仁左衛門 ・蓑助・富十郎・雛助、そして最後に寿海と、東京俳優の関西移動が、いつの間にか「関西歌舞伎」の内容を変貌させてしまったのである。言い換えれば「関西歌舞伎」と殊更に呼称しなかった当時の関西歌舞伎こそ、正真正銘の「関西歌舞伎」であって、常に「関西歌舞伎」と呼称するようになった、現在の関西歌舞伎は仔細に検討するまでもなく、内容的には嘗ての「東京歌舞伎」と余り違いはないというのが実情であろう。関西歌舞伎はいつの間にか上方俳優によって構成された本質的な「関西歌舞伎」ではなくなってしまって、主として関西に籍を移した東京俳優によって構成された形式的な「関西歌舞伎」になってしまった事実は否定出来ないのである。

 即ち現在の「関西歌舞伎」を構成している人々は、寿海・仁左衛門・蓑助・富十郎・雛助・菊次郎の所謂、東京出身の俳優を主にして、それに又一郎・鴈治郎・延二郎・扇雀という手薄な上方俳優を加えた一座なのである。つまり、上方俳優を主体にしてそこに二三の東京俳優が加わった「関西歌舞伎」ではなく、東京俳優を主体にして、そこに残存した二三の上方俳優が加わった「関西歌舞伎」であるところに今日の「関西歌舞伎」の問題があり、悲劇があるのである。

 しかしそれはそれとして、現在の関西歌舞伎一座の顔触れを見渡したところ、まことに堂々としていて、現在の東京芸壇の人々に比べて毫も遜色はないのである。先ず座頭格の寿海には、もうすっかり貫録が出来て、東の長老格である猿之助・時蔵・左団次といった人達と、対等以上に渡り合えるし、中心部と見られる鴈治郎・仁左衛門・蓑助・富十郎にしても、一人々々の技芸について言えば、吉右衛門劇団の勘三郎・幸四郎・歌右衛門、或は菊五郎劇団の海老蔵・松緑・梅幸・羽左衛門に比べて、聊かも見劣りしないのである。

 更に、訥子・菊次郎・吉三郎・雛助をはじめ、奥山・寿美蔵・松若・霞仙・璃?等々の脇役陣も、質量ともに充実している。況や、延二郎・鶴之助・扇雀・雷蔵といった若手に至っては、東のホープ福助・八十助・芝雀・半四郎に比べて、魅力や人気の点では遥かに凌駕していると言い切っても差し支えないだろう。

 そんなに充実した一座であるにも拘わらず、「関西歌舞伎」の弱体化が絶えず叫ばれ、人気の焦点から外れるのは、一座の足並みがとかく揃わず、何となくバラバラの感じを懐かせる点にある。現在「関西歌舞伎」なるものは存在しているが、これとて東京に於ける菊五郎劇団、或は吉右衛門劇団に比べて、 内容的にはそれほど強固なものではなく、寧ろ形式的な色彩の方が強い感じがするのである。特にこの一年を振り返ってみても、鶴之助の松竹離脱に端を発した内紛から、蓑助の提訴問題、続いて鴈治郎の無期休演と、「関西歌舞伎」の動揺は未だに止まず、不安な嵐の中に足許も覚束なく、自分で自分の行手に迷っている風に見えるのも、全く「関西歌舞伎」の屋台骨がしっかりしていないからである。

 たまたま八月の大阪歌舞伎座に於ける「関西歌舞伎」久々の公演は、如何に暑中という不利な条件下であったとは言え、未曾有の不入りを示し、「関西歌舞伎」の存在をすら疑われる始末で、続いてその雪辱を期した九月の南座公演は、出し物の刷新と一座の奮闘によって、聊か「関西歌舞伎」の面目を取り戻した形ではあったが、折角「松竹経営五十周年記念興行」と称えながら、遂に南座とは最もゆかりの深い筈の又一郎・鴈治郎・扇雀の成駒屋一門を欠くという割り切れないものを残したことも「関西歌舞伎」がまだまだ落ち着くべきところに落ち着いていないという一つの礼証を示したものといってよいのではあるまいか。

 更に折角売り出して「関西歌舞伎」の新しい人気の中心となりつつあった鶴之助・扇雀・雷蔵の三花形について言えば、鶴之助は、松竹離脱の後、混成劇団「新春座」を率いて、一度は舞台に立ったものの、線香花火式なものに終って、今は吾妻徳穂と共に外遊途上にあり、扇雀は舞台で得た人気を映画に移して、とかく、生まれ故郷の舞台を忘れ勝ちであり、雷蔵に至っては、もうすっかり映画俳優になり澄まして、全く舞台を見捨ててしまったとしか思えない −かく「関西歌舞伎」に、期せずして見事に咲き揃った三つの花が、次々に失われて行ったことは、たださえ沈み勝ちな「関西歌舞伎」を、一層暗い方向へ追いやってしまう大きな原因の一つでもあった。

 さて「関西歌舞伎」の過去現在を眺めてみたが、その将来は果たしてどんなものであろう −私は必ずしも悲観する要はないと思う。前にも言ったように、「関西歌舞伎」の人達は、一人々々の技倆を採り上げてみて、決して東京劇壇の人達に劣らないのである。ただその技倆を発揮する過程に於いて欠陥があるのだ。

 我々が今後の「関西歌舞伎」にひたすら望みたいのは、みんなが − そうだ、興行師も俳優も観客も、みんながあらゆる障害を排除して、すべての俳優が持っている技倆の全てをフルに発揮出来るような、好ましい状態に導いて行って欲しいということである。そして、長老寿海を中心に、鴈治郎・仁左衛門・蓑助・富十郎・延二郎といった人達が結束して奮起し、更に鶴之助・扇雀・雷蔵が、舞台のふるさとに戻って落着いたとき、「関西歌舞伎」の花も美しく咲き揃い、やがて見事に実る日もあることっを信じて疑わない。

 思えば「関西歌舞伎」に後進育成の策なく、東京俳優の移籍に刀を借りなければならなかった悲劇はあったにしても、先代鴈治郎没後、衰退の一途を辿りつつあった「関西歌舞伎」を、再び昔日の勢いに返す道は、ただただ「関西歌舞伎」を愛する人々の手によって築き上げて行くよりほかはないだろう。

 

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