それでは、貴方方は次の関西歌舞伎を背負うべき人達ですが、上方狂言に対してどう考えていますか。

鶴之助 正直なところ、わからないと云うのが本当でしょう。

鯉昇 それに答えられる方が間違いだと思います。

 では、具体的に例をあげますと、“乳もらい”とか“雁のたより”の様な芝居が貴方方に出来ますか。

鶴之助 こうして武智先生に教えてもらっていれば“雁のたより”の様な荒唐無稽な芝居は馬鹿々々しくて出来ないと思います。

延二郎 よく人に延若の子だから、当然“雁のたより”や“乳もらい”等を受けついで行かねばならぬ様に云われますが、僕の気持としては出来ません。

雀 僕も前回の実験劇場以来あんなものが馬鹿々々しくなり、伊勢音頭の万次郎をさえ、していて馬鹿々々しいと思うのです。

鯉昇 僕は理屈なしの面白いものがあってもよいのではないかと思います。

 つっころばしの様な、上方特有の芸を君達がやりたくないと云う事は困った事で、自分だけででも残したいと思う人はないかな?

靖十郎 扇雀さんなんかは、お家芸として、是非受けついでほしいですね。

扇雀 僕だって、大人になればやりたくなるかも知れませんが、今のところはね・・・。

太郎 東京に対して関西の特色ある歌舞伎が残される必要があるから、莚蔵君は今度の求女も評判がよいのだし、その方面に進んだらよいと思うがな。

莚蔵 僕は女形とか、でれでれしたのがきらいなんです。

鯉昇 何云ってるんだ、平生はデレデレしてるくせに。(笑)僕は関西の芸風にそうしたものを是非残したいと思うな。

 それでは、大阪のものには心中ものが多いが、あの様な逃避的な解決方法の心中は、恐らく近代的な貴方方には出来ないと思うが、その点はどうですか。

鶴之助 僕は心中と云う気持はわからないが、芝居をしている中に必ず心中して行く気持になって行けると思う。

太郎 そうかな?しかし、それはそれにしても、あくまでこしらえた気持だろうと思うが・・・。

鶴之助 主観的に出来なくても、客観的になればいいだろうと信じます。

扇雀 僕も今の気持としては到底心中の気持になんかはなれっこないね。

延二郎 僕は忠兵衛の場合の心中する気持はわかるが、治兵衛の心中する気持はわからないよ。

小金吾 武智先生の意味づけで行くと、出来ないね。

鯉昇 だから舞台の上に夢をもたなければいけないと思います。野崎村のお光にしろ、今だったら、髪を切って・・・と云う事もなく、修道院にでも入ると云ったものですが、今あの芝居を見ていても不自然でないと云うのは、結局今の気持でその時代のものを見て、夢を描いているからでしょう。だからやっている役者も、演技の上に十分夢を生かさなければいけないと思います。河内屋さんの山門を見て、つくづく大きいなあ!と感心しましたが、あれが歌舞伎の夢だと思います。

小金吾 ついでに話しますが、あまり自慢になる事はないのでしょうが、僕等が如何に現代人になってしまっているかと云う証明に話すのです。俊寛に出ていてふろ前を見ると、丹左衛門役のりいちゃん(鯉昇)の袖のあたりに何時もつき出ている刀が見えないのです、ハテナと思って注意して見ると忘れているらしい、途端におかしくなって鯉昇君に「カタナガナイナイ」と云ったのです。りいちゃん(鯉昇)気がついて、ハットして途端にぶるぶるして来た、ところが、今度は僕が腰のところに手をあててみると「シマッタ」僕にも刀がないのです(哄笑)。途端に僕もぶるぶるふるえて来て、次には二人ともおかしくなってしまった。すぐ引込みで刀は差しましたが、武智先生を初め誰も僕等が云い出すまではわからなかったのです。歌舞伎の世界と現実とは悉皆違っているのですから無理もないと思いました。(笑)