京丹後市

 

炎上』ロケ地巡り(丹後半島あっちこっち)

 

  

 ヤフオクで入手した『炎上』のパンフ↑によって、ロケ地の特定ができた。そこで、網野町観光協会にメールを送り、当時を知る人がいないか?またロケ地がどのように変貌しているのか尋ねたところ、幸いなことに一番の目的地・海隣寺は多少きれいになっているが、そのままであること。当時を知る人を紹介できる旨のメールを受け取り、まずまずの天気の10月2日、JR京都駅から丹後半島へ向った。

 北近畿タンゴ鉄道網野駅で下車し、琴引浜鳴き砂文化館館長のご案内で、小天橋のある久美浜へ。

特急“はしだて”

@小天橋 久美浜

 

 

 

元久美浜県の県庁玄関の外観を木造で再現した “久美浜駅”

 ロケ当時は竹野郡網野町湊村と呼ばれていたのだが、現在は2004年4月1日の合併で京丹後市に。久美浜町小天橋にある海隣寺は映画では、吾市の実家顕現寺となっている。実は、館長はロケがあったことは記憶されていたが、直接ロケ現場にいたわけではないということで、まず久美浜町観光総合案内所で海隣寺について尋ねることにした。案内所は駅の中にあり、所長をはじめみなさんから温かく迎えられ、呆れたり、感心されたりしながら(苦笑)海隣寺檀家総代の方をご紹介いただいた。

 まずは写真↑を見てほしい。49年の歳月の結果、瓦を新しく葺き替え、随分綺麗になっているが間違いなく、映画の顕現寺であり、カバンを提げて学校から帰って来た吾市が見てはいけないものを見てしまい、立ちすくむ吾市の目を背後から覆う父、このシーンを撮った場所だということがわかる。

  

 当時海隣寺には庵主さんが一人でお住まいだったそうだ。しかし、ロケ当日こそ梅雨の陰鬱な日だったそうだが、現在の小天橋にある海隣寺の周りは明るく裏日本の暗い印象など皆無だ。ロケハンでこの寺に決めたのは市川監督なのか、宮川カメラマンなのか・・・?いずれにしても、父の葬列はこの寺から出発した。

次に向ったのは、難読地名の代表のような間人(たいざ)

A丹後町 間人(たいざ)

 ↑重苦しい雲の下、荒波荒れ狂う日本海の断崖に立つ吾市と父。ここで父は驟閣の美しさを息子に諄々と説く。また、死を思いながら父の説く驟閣の美しさを思い出し、うつろな目でじっと陰鬱な海と空を眺めた。あのシーン!これらシーンを撮った断崖はどこか!あちこちそれらしいところを丹後半島を巡るのだが・・・1-3のうちどうも1のように見えるのだが?丹後町立岩なだが・・・どうだろうか?

 淋しい葬列のシーンに相応しく海岸に沿って墓標が立ち並ぶシーンを覚えている人も多いと思う、そこは49年後にこうなった・・・↓

 

 墓をすべて上のほうに移動させ、キレイに整備された海浜になっていた。49年前市川監督がロケハンに来た頃は・・・↓こうだったのだ。時が移ろうと、写真に写る岩陰は49年前と同じだ。

 

A網野町 琴引浜

 

 市川崑監督、田中徳三助監督、宮川一夫カメラマン・・・ロケハンに訪れたスタッフ。(1958年当時)

49年前も今も、浜は鳴いている!浜が未だにキレイな証拠だ!

 館長のお話しによると、沖の石↑は運んできたそうだ。

 葬列には村の年寄り連中が、自発的に参加したとかそのため予想外に賑やかな葬列となったが・・・寺を出発した葬列はその後琴引浜を淋しく行き、父の遺体を荼毘に付す。

 
 今回は「琴引浜鳴き砂文化館」館長さんのご案内で丹後半島を巡った。当日は休館日、その上“全国鳴き砂サミット”(9/29・30)に出席のため前日まで八戸出張と、お疲れのところにもかかわらず当方に付き合ってくださった。本当に感謝・深謝だ。

 また、このロケ地巡りは、「網野町観光協会」、「久美浜町観光総合案内所」のご担当者さまから数々の便宜を図っていただいた。それだけでなく、宿泊した「海士館松栄」ではご主人にもお世話になった。この場をかりてみなさまに心からお礼を申し上げたい。ありがとうございました。それにしても、これもあれも雷蔵さんの縁である。(合掌)