スイカをつかって?ユーモラスな立ちまわり(中央、市川雷蔵)=田中監督作品『濡れ髪三度笠』の一場面
 時代劇の楽しさといえば立ちまわりにあるようだ。娯楽時代劇ともなればチャンバラを見たいからという観客が、いい年をしたおじさんやインテリ層にもずいぶんある。バカバカしいと思っても、時代劇の魅力がチャンバラにあることは否定できない。合理的な時代劇 - とうたっている最近の若い監督たちはこの立ちまわりをどうみているか。

 『お嬢吉三』で新鮮な感覚を期待された大映の田中徳三監督にきいてみると。

 ★立ちまわりというものは、もとより本当の真剣勝負とは似ても似つかぬものであることはいうまでもありません。本物らしくみせた模造品です。それがわかっていながら演出者が肩に力をいれ悲壮がって撮るから、どうもこれまでの時代劇の立ちまわりは白々しくなってしまうのじゃないかと思う。

 立ちまわりに限らず悲壮な話を演出する場合、一体に演出する方が悲壮がってしまってはかえって滑稽になる。悲劇が好きで、すぐ緊張してしまうのは日本人の欠点でしょうが、このテンション民族の欠陥が時代劇の立ちまわりにも現われていると思うのです。

 ★そこで私はつとめて客観的な距離をおいて立ちまわりを撮るようにする。たとえばサッと人を斬りますね。刀が人にふれず相手が倒れるのだから、観客にはウソであることが十分わかっている。知っていながら楽しんでいる。そこでこの前に撮った『お嬢吉三』ではそのウソを強調してみました。刀をスーッとすりつけるようにして斬るのです。真剣ならそんなことをしたら当然血しぶきがあがるところだが、でないから観客はウソで自分たちが楽しんでいることを意識させられる。

 つくる方も、それを知ってつくっているのだということがわかるからそのゆとりが観客の方にも伝わっていく。ある種の喜劇的効果があがって、娯楽時代劇では案外面白いように思いました。

 ★おなじようなことで、マンボなどのリズムにのせて立ちまわりをさせるという方法も考えられる。またいま撮っている『濡れ髪三度笠』(市川雷蔵主演)では、刀と刀とがハッシとうちあう。つぎのカットで花火がパッと空一面にうちあがって、場面がかわるとみな斬られて死んでいるというようなことも考えています。

 それから桶と煙草盆、笠と笠という物どうしの立ちまわりも面白い。みなチャンバラを一定の距離をおき、ひとつの“遊び”としてみるための試みです。勿論どの映画でもこれが通用するとは限りませんが・・・。

 ★もうひとつの立ちまわりで考えられるのは、新国劇や前進座の舞台でみられる修練による殺陣の巧さをそのまま映画にもちこむことです。

 これらの舞台では俳優の立ちまわりそのものが修練につむ修練によって、ちょうど円熟したサーカスを見るように一個のショーとして観客を劇的興奮にさそう。“芸”にまでたかめられたリズミカルな殺陣は、それ自体ひとつの“律動美”であります。しかし、これはいまのチャンバラ・シーンのようにカットを細かく割っては効果がありません。ワンカットのなかで芝居をやり通さねばこの“芸”はでない。

 これには主役のほかに立ちまわりで主役にからむ俳優たちの高い技術が必要になる。いまのところまだ無理ですが、撮影所でも殺陣道場のようなものをもっと充実し、理想をいえば一場面で立ちまわりの醍醐味が味わえるようになればいいのですがね。

  

 

Top Page