俵屋宗達(生没年不詳 - 慶長から寛永年間に活動) 『風神雷神図』
 17世紀前半の作。国宝。2曲1双・紙本金地着色、各157.0×173.0cm、建仁寺蔵(現在は京都国立博物館に寄託)。落款、印章はないが、宗達の真筆であることは疑われていない。製作の経緯はよくわかっていないが、京都の豪商で歌人であった打它公軌(うつだ きんのり)が京都妙光寺再興の際に製作を依頼し、その後建仁寺に渡ったという。
 宗達の最高傑作といわれ、宗達と言えばまずこの画が第一に挙げられるほど有名な画である。また、宗達の名を知らずとも、風神・雷神と言えばまずこの画がイメージされるほどの画である。

 


 

尾形光琳(1658-1716) 『風神雷神図』
 重要文化財。2曲1双・紙本金地着色、東京国立博物館蔵。尾形光琳は、原画(俵屋宗達の屏風画)に忠実な模写を残した。
 風神・雷神の姿が画面ギリギリではなく、神の全体像が画面に入るように配置されている。宗達の画では、両神の視線が下界に向けられているのに対し、光琳の画では両神がお互いを見るように視線が交差している。両神の顔が、やや柔和な印象を受ける。
 光琳の模写も傑作の部類に属するが、上記の相違点により、「宗達の画のほうが迫力がある」という観覧者が多い。

 


伊藤若冲(1716-1800)『雷神図』
 紙本着色一幅. 千葉市美術館蔵。

 若冲の水墨画。太鼓を追って天からまっさかさまに落ちようとする雷神を描いたもので、テーマもユーモラスなら、雷神も子供のようにどこか愛らしい。太鼓の胴部分に筋目描きが用いられている。


 

酒井抱一(1761-1829)『風神雷神図』
 出光美術館蔵。酒井抱一は光琳の模写をさらに模した画を描いたが、宗達の画を知らず、光琳の画が模写でなく独自に描かれたものとして考えていたと見られている。
 なお、代表作の銀屏風「風雨草花図」(「夏秋草図屏風」の題名で広く知られる)は、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」の裏面に描かれたものである(現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている)。風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。

 


 

葛飾北斎(1760-1849) 『雷神』
 北斎の肉筆、フリーア美術館蔵。フリーア・コレクションは、チャールズ・ラング・フリーアの遺言により門外不出。

月岡芳年(1839-1892)和漢百物語 雷震
 幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師。衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。
 封神演義で有名な太公望の名は、多くの人が一度は聞いた事があると思う。この月岡芳年のシリーズ『和漢百物語』は、タイトルの通り和漢の物語をモチーフにした絵を描いており、この「雷震」などは中国からの物語である。 舞台は周の文王が殷の紂王を倒そうと大軍を率いて出陣。しかしそれを紂王旗下の高明と高覚という鬼が立ち塞がり防いだ。ここでなんとかしなければと、策を練ったのが太公望で、長い柄の槌をぶん投げ、鬼を退治した。

神坂雪佳(1866〜1943)『雷神』
 京都に生まれ、本名は吉隆。四条派の鈴木瑞彦に師事し、のち岸光景の門に入る。光悦光琳派の画家であり、工芸美術の作家としても世界的に著名。欧州を歴訪してアールヌーヴォーの形式を取り入れるなどした作風は独自の境地を拓く者として、欧米で熱い賛美を浴びる。
 また、わが国の近代工芸に曙光を与え、その後の発展に大きく貢献。その作品は今日もなお、とりわけ欧米で高く評価され、「ル・モンド・エルメス」38号の表紙と巻頭12ページを飾る。雪佳の作品には現代の一流ブランドさえ魅了する斬新な意匠美の世界が、今も変わることなく息づいている。

 


富田渓仙(1879-1936)『風神雷神』(雷神部分)
 1879年福岡の博多生まれ。1936年没、享年57歳。12歳で地元の狩野派に学び、19歳で京都・四条派に入門。24歳の時、第8回新古美術点に出展するも、その大胆な構図とデフォルメは保守的な京都画壇から批判された。 
 その後、10年模索の時代が続いたが、「鵜船」で世に知られるようになる。
日本画の伝統・因習・様式の形を打ち破り自在にデフォルメして、対象をいきいきと描いたところが特徴。