雷蔵は生きている

 昭和44年7月17日、市川雷蔵は37歳の若さで不帰の客となった。だが、その死顔は誰にも見せなかった。

 不治の業苦“癌”に蝕まれた肉体を、生前の知人にさらすことを拒んだ雷蔵の遺志による。美しい二枚目俳優のイメージを、生死の境界で守りぬいた見事な役者魂というべきであろう。役者の鑑というべき役者のの最後 − 市川雷蔵は死してなお永遠の美男スターとして生きているのだ。

 雷蔵の死は映画界に深刻なショックを与えた。ある人は「時代劇の最後の灯が消えた」と極論して、伝統ある時代劇が重大な危機に直面したことを指摘した。たしかに、年ごとに製作本数が減少し、孤塁化していく時代劇にとって、市川雷蔵こそ伝統の砦を守る最後のサムライであったといえる。時代劇のプリンス、あるいは貴公子スターと形容された端正なマスクに、雷蔵はときに虚無と孤独の影を濃く宿していた。それは出生から生い立ちにまつわる影であったと考えられる。

 生後わずか六ヶ月で生母の手を離れ、市川九団次の養子として成人するが、20歳で三番目の父母につかえることになる。この最後の養子縁組で、関西歌舞伎の名門故市川寿海丈の慈愛を一身に浴びたことが、俳優市川雷蔵の存在を決定づけたのだが、世俗的な意味での家庭の味には、ついに無縁な青春であったといえる。後年、結婚して一男二女の父となり、あの辛辣な毒舌家が、一転してごく平凡な家庭人に徹しきろうとしたのは、満たされぬ青春への埋め合わせであったのかもしれない。

 しかし仕事に対しては峻厳と毒で鳴る雷蔵と、よき夫でありよき父であった雷蔵 − この二面性は彼の場合、全く矛盾を感じさせない。なぜなら、スクリーンでまばゆいばかりの光彩を放つ二枚目はあくまで虚像であり、よき俳優の実生活というのは“影”にすぎないからだ。ある俳優の虚像と実像、光と影のコントラストが際立っていれば、その俳優の演技に花を持っていることになる。まさに市川雷蔵は映画・演劇を通じて他に類を見ない華麗な花を持った役者であった。

 映画俳優は一代かぎりという。歌舞伎の世界の下づみでたたきあげ、スクリーンで絢爛と咲き誇った雷蔵の芸が、他人に伝承されるはずもないが、それだけに雷蔵亡きいまはことさらに貴重に思われる。

 養父市川寿海ばりの美しい口跡と格調高い名演技 − ここに収録したものは、その偉大な業績のほんの一部にすぎないが、あの端正なマスクをほうふつさせる名場面ばかり。いまさらのように36歳という若さが惜しまれる。** 71年7月発売 **