市川雷蔵 魅力集大成

監修・構成メモ   大貫正義

 けたたましく鳴る電話のベルの音が、今まさに家を出ようとしていた私の耳に飛び込んで来た。私へか?玄関にとどまった私に、家内が、徳間音工のディレクター浦氏である事を告げる。用件は、市川雷蔵のレコードを出すのだが、その監修・構成・解説を引き受けてくれないか、との問い合わせである。九月六日の事であった。

 私に、監修・構成・解説をと言われた時、私自身、映画の世界で育ったとは言うものの、撮影所を異にしていたため、雷蔵とは逢うチャンスもなかったし、それだから、一緒にした仕事は一作品もない。そんな訳だから、雷蔵自身の私生活にいたっては、皆目判らない。新聞・雑誌のゴシップは、全くと言っていいほど信用しない方針の私だから、なおさらの事である。それに、作品にしても、153本の多きにのぼれば、半数以上観ている、と言えば嘘になる。それが、ヒョンな事からこの仕事を引受けるハメになってしまった。その理由の一つに、どうも、某社に於ける嵐寛さんの仕事をしたと言う事があるらしい。

 そこで、某社や他社のものとは異なった構成法をとらねばならない。近頃、このような企画が種々の社から出ているのでやりにくくて仕方がない。某社のそれはトーキーであるにもかかわらず、その間を活弁で繋ぐ方法をとったので、今回は、その企画意図が、人間市川雷蔵の魅力を追いたいとの事もあって、その映画界に於ける半生を物語風に追ってみたいと思い、話をしたところ、意見の一致をみる事が出来た。浦氏の賛同を得たのである。

 さて、まず第一段階として、その全作品の中から、収録リストを作成しなくてはならない。なにしろ、主演作品ばかりでなく、全出演作品153本の中から選ぶとなると、一通りの作業ではない。一つのジャンルのみにしぼりたくなく、代表作、文芸作品は勿論のこと、歌謡もの、コメディ・・・と、あらゆるジャンルから、それぞれの代表的なものをいくつか取り上げてみた。しかし、これらはあくまでも、私だけの希望であって、いざ蓋をあける段になって、思い通りにいかない事に気がついた。

 大映の方に原版が無かったり、また、有っても、決められた期日迄にプリントが間に合わなかったり、16mmで音が惨憺たるものだったりする。しかしそうは言っても、雷蔵を知る上にどうしても必要なものは、それが、ひどい音であっても、取り上げさるを得なかった。プリントは無いがネガとして保存されているものは、直ちにネガより音をコピーするように手配して貰う。そして、どうにか20作品を選び出す事が出来た。

 そのリストに基づき、それぞれの検台(検定台本=映画の完成後、改めて作られる台本で、巻別、音楽の入っている処など、くわしく印されている)を読み、プリントを観る、これがまた一仕事である。検台の無いものは、どうしても画面につりこまれ、あれも、これもと欲しくなり、その抜く部分が多くなってしまう。これではとても全部収録出来なくなる。そこで、改めて音のみを聴きなおし、チェックし整理をしていった。

 映画として、スクリーンの上では面白く迫力のあるシーンであっても、それが音だけになった場合、かって、その映画を観た者にとっては、その時の場面を思い出して堪能出来得るかもしれないが、その映画を知らない者もとっては、面白くも何ともないかもしれない。(音楽に関しては、この言葉は当てはまらない)加えて、徳間音工の制作から、声は雷蔵にしぼり、より多く聴かせて欲しいとの要望もあって、作品の中で、いわゆる名場面と定評のあったものや、プリントのいたみで、音が飛んだりしているもの、TV放映のため画がカットされて無いものなどは、やむを得ず、はぶいてしまったものも少なくない。

 作品のコピー作業だが、映写機を通して音を録ったのでは、それでなくても音質が落ちているのだから、より悪い音になってしまう。何とか良い方法はないものかと、腕をこまねいていた時、たまたま音響ハウスと言う新しいスタジオの存在を知った。早速、ディレクターの浦氏とハンティングかたがた打合せ行く。そこで私はついている事を知らされた。音響ハウスの役員であり、技術の責任者が、監督室と録音部と、そのパートを異にしてはいたものの、かっての同期、録音部にいた江間君であったからだ。話は早かった、私の意図が充分に判って貰えた様である。打合せが済んで、“これでコピーする”と言うレコーダーを見る。この機械ならば、映写機からのコピーより、良い音が録れるであろうと安心する。早速、台本の抜き書きを渡し作業に入って貰う。と、同時に、ナレーションの原稿書きが始まる。

 ナレーションを書く段になって、また一つの問題が出て来た。ナレーションで人間雷蔵を追う事になると、限られたスペースの中で、そのナレーションがしめる範囲が、必要以上に多くなる可能性がある。それに、出来得る限り多くの雷蔵の声を聴かせるのが目的であるから、不本意ではるが、要点のみに絞り、ブリッジ的扱いにせざるを得なくなった。とは言うものの、ただサウンドをフィルムからレコードへ移しただけのものよりは、はるかに有意義だと思っている。何しろ、レコードの発売日が決まっていて、それをくつがえす訳にはいかないのだから、のんびりすごしている訳にはいかない。出来得る限りの資料を集め、それに眼を通す。雷蔵の手記、彼に関する他人の評価、雷蔵の伝記、・・・・etc.読んでいくうちに、市川雷蔵なるものが、徐々にだが浮き彫りにされて行く。彼の考え方が、私のそれに似通っていたのを知った。

 資料に眼を通した間、わずかに一週間ではあったが、私は私なりに、微々たるものかもしれないが、雷蔵と言うものが判ったような気がする。そうなってくると、ますます人間市川雷蔵と言うものを、よりナレーションで追ってみたくなって来る。だが、限られた原稿枚数、結果は、昭和二十九年のデビュー作品より、昭和四十四年二月の最後の作品まで、その間に繋ぎとして短かく、雷蔵の手記を基盤に挿入する事で、残念ながら、自分自身を納得させざるを得なかった。それと、一つには、雷蔵に関する記事は、それぞれ、ゆかりの人々が書いてくれると言う事もあって、その方で雷蔵を知ってもらう事も出きると思ったからでもある。

 私が初めに意図したものとは一見、大分かけはなれてしまったかのようにみえるが、その実、テーマ事態の変化はなく、充分とまではいかないにしても、当初の意図は表現されたのではないだろうか。歌舞伎に、映画に、絶えず真剣に取り組み、芸道一筋、この世界に生きた剣豪雷蔵も、病には破れ、油ものったこれからという時に、三十七歳と言う若さで、永い旅へ、長脇差こそ持たなかったが、草鞋をはいてしまった。もうあの毒舌を聞く事は出来ないし、雷蔵は、私達の前で、もう笑ってくれなければ、泣いてもくれない。しかし、スクリーンの上の雷蔵は、どのような時代がこようとも、老ける事もなければ、かってそうであったように、何時も変らぬ表情で、笑いもし、泣きもして、我々に語りかけてくれる。

 それが、人間市川雷蔵の真の姿である。

浄念合掌