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松平 忠直 文禄4年(1595)〜慶安3年(1650)

[天下人の孫]

 松平(結城・徳川)秀康の長男。徳川家康の孫。幼名は国丸。正室は徳川秀忠の娘・勝姫。豊臣秀頼とは義兄弟にあたる。大柄で怪力の持ち主だったと伝えられる。父の秀康は越前北ノ庄(後の福井)67万石の大名であるが、家康は病床の秀康に病が回復すれば100万石に加増すると約束していたようである。

 慶長11年(1606)元服。叔父・秀忠の偏諱を受け、忠直と名乗る。翌年、父が没すると家督を相続するが秀康以来の家臣団の統率に失敗(越前騒動、久世騒動)。家康・秀忠に直に裁決される始末である。この一件により親徳川の重臣たちの勢いが増し、忠直は将軍家の兄の家柄「制外の御家」の家格を落としてしまう。

[大手柄]

 大坂の陣に従軍。冬の陣では城南の八町目口と対峙するが、真田丸の攻防戦で軍令違反の攻撃の上に大敗。夏の陣には河内口第三番手右備として参戦するが軍令を墨守して若江・八尾の戦いを傍観。この夜、先鋒を祖父の家康に願い出るが「昼寝していたのか」と今度は軍令を守ったがために叱責され、部署から外される始末。汚名返上を期して抜け駆けした忠直は天王寺口の前線、強敵・真田の前に死を覚悟に陣を構える。一旦は家康本陣への突入を許すものの真田勢を殲滅して信繁を討ち、徳川軍最多の3750余(全体の約1/4)の敵首を挙げて大坂城一番乗りを果たす。

 家康に「天下第一、古今無双」と称賛され、天下の名器の初花の茶入れを始め多くの家宝(刀や画幅)や金銀(銀2百枚)を賜り、官位も参議に昇格。上方では「かかれかかれ越前衆、たんだかかれの越前衆。命知らずのツマ黒の旗」という歌が童の間で流行る。恩賞はおって沙汰するということであった。

[制外の御家のプライド]

 この戦功で弟の忠昌と直政が大名に取り立てられたが、忠直自身には、ついに実質的な恩賞の石高加増がなかった。官位も父の中納言に届かず、徳川義直・頼宣が元和3年(1617)先んじて中納言に昇格。その格下にあたる水戸頼房にも抜かれた。処遇に不満を持って乱行を重ねたというが、それは後世の脚色もあり、むしろ名君であったという(忠直の治世で開発された鳥羽野の住民は忠直の死を聞いて墓参りに来た)。ただ1617年以来国許に籠りっきりで参勤を怠るなど幕府の威厳を傷つける行動で謀反の風聞が発生。江戸へ赴く動きを見せるが、なんと関ヶ原で駐留したっきり帰国してしまう。幕府も捨て置けず同9年(1623)隠居という形で失脚。正室との不和も一因になったという。竹中重義預かりの捨封地5千石で豊後萩原に配流され、松平家は越後高田20万石に減封された(福井には代わって分家の忠昌が50万石で入る)。

 真相ははっきりしないが、諸大名が忠直を擁立した謀反を起こそうとしたことで、先手を打った幕府の、徳川家光の将軍就任に向けての危険分子排除だともいう。一伯と号した忠直は後に津守に移された。幕府から豊後目付を置かれるなど(九州諸大名の監察も兼ねた)厳しい監視を受けたが、忠直自身は穏やかに過ごしたと伝えられる。村人や庄屋と交友、熊野神社に寄進した。慶安3年(1650)死去。遺子は長兄の光長に引き取られ、津守の館もお役御免になったが、現地の人はもったいないとして忠直の菩提を弔った。(大坂の陣人物列伝より)

 

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