薫の君の言葉に嘘はなかった。官位を返上しニの宮さまのお話も辞退した。無位無官、一介の下人となって、浮舟と共に山荘にこもろうと決心した。その決心を秘かに知った匂の宮は浮舟の許へ車を駈った。中の宮からそのこと聞いた薫の君は急に不安になった。慌てて匂の宮の後を追った。
匂の宮の車が山荘に着いた頃、薫の君の車は故障を起した。山荘はまだ程遠い地点だった。
浮舟は寝所に休んでいた。匂の宮は供の者をやって、ひそかに姫を連れ出そうとしたが、中将に見つけられてしまった。やむなく宮は中将に案内されて部屋に入った。
「お心は嬉しゅう存じますが、一旦大納言さまに差し上げましたものを、どのようなお心にもせよ道ならぬこと致されませぬ」
と釘を差す中将に向って宮は言った。
「薫は帝の激怒を蒙って、位も職も取上げられたのだぞ」
中将の心は動揺した。折角、姫を連れて都へ上ったのも、浮舟の出世が見たかったからに他ならぬ。それが下人の妻になるなど、考えてみただけでもぞっとすることではないか。
「浮舟はわしが起こす」
宮は中将の動揺を見抜いていた。さっさと浮舟の部屋に入っていった。姫はふるえていた。
「宮さまは、宮さまは姉君の・・・」夫ではないかという浮舟に、
「そのようなことが・・・そなたはまだ本当の男と女の悦びを知るまい、二つの体を一つにして生命の火を燃えつくす・・・」
女にかけては海千山千の宮にかかっては、浮舟の抵抗など物の数ではなかった。心の中で、いけない、いけないと叫びながら、体は宮のものになっていた。
白々と夜が明けた。
やっとの思いで山荘に辿りついた薫の君だったが、そこには意外なことが待ち受けていた。まだ眠っているという浮舟をいらいらと待っていた薫の君の背後から、突然、匂の宮が入って来た。浮舟も一緒だった。
「どうした」
薫の君は思わず浮舟に声をかけた。
「薫の君さま」
という浮舟の唇はふるえていた。その唇からすすり泣きがもれた。
「薫、浮舟はわしが貰いうけたぞ、浮舟はもうわしのものになったのだ。二人は昨夜臥床をともにして契りを固めたのだ」
宮の言葉が終らぬうちに浮舟は大声で泣き出していた。呆然たる面持で薫は浮舟をみつめていた。蒼白な顔で薫は言った。
「浮舟、それはまことかッ、私は今日、そなたに喜んで貰おうと思うて来たのだ。誰憚からず、晴れて暮せる日が来たのだ。それなのに、そなたには私のこの思いは通じなかった。宮に心を通わせていたのなら、なぜわしに打明けてはくれなかったのだ」
「宮さまは嫌いです。浮舟はただ薫の君さまだけを死ぬほどお慕いいたしておりました」
「それほどの心があるなら、なぜわしを待ってはくれなかったのだ。あらぬ男の一時のなぐさみが、わしの生涯の傷となったのだ、宮も憎い、私はそなたと共に突き殺してやりたい、今にして右近少納言の心の中が判ったような気がする」
薫の君の胸のうちは煮えくりかえるようだった。思えば浮舟が心も身体も縛りつけてくれと言った時、なぜわしは清いままでいようなどと言ったのだろう。
「浮舟、さ、急いで仕度するのだ」
匂の宮の言葉に浮舟は立ち上がった。廊下に出て、それから再び振返った。薫の瞳と浮舟の瞳が一瞬、愛と憎しみを越えてきらめき合った。
女心というものはそれほど果敢なく、もろいものなのだろうか・・・百万言の心の誓いも女の体を縛ることは出来ぬ・・・うつろな心に言い聞かせていた薫の君の耳に、浮舟、浮舟と呼ぶ宮の声が響き渡る。中将もまた心配になって館の中を探し廻っていた。ふと二階棚に薫の与えた桧扇が拡げてあった。中将の眼にいきなりとびこんだ文字−浮舟のいのち、薫の君さまへ−
たちばなの
小島の色は変らじを このうき舟ぞ
ゆくへ知られぬ
浮舟の姿は何処にもなかった。川面には靄が立ちこめ、蘆が風にそよいでいた。薫は流れに踏み込み木靴をとられた。跣足のまま浮舟を求める薫の眼に、ふと一輪の桔梗の花がとまった。浮舟の愛した花だった。
(57年6月5日発行別冊近代映画
「源氏物語 浮舟」特集号より)
|