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古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう 文政12年〜元治元年)
名は正順(まさやす)。初め、頼母、俊太郎と称す。変名、枡屋・湯浅喜右衛門。近江国大津に生まれる。父は周蔵正明、近江国粟田郡物部村古高の旧族。父が大津代官石原清右衛門に仕え、のちに山科毘沙門堂の家臣となり、正順は同門跡の近習になった。 国学・和歌を烏丸光徳に学び、梅田雲浜の門に入り、勤王を志した。堺町丸太町に住み、彼の家は勤王派の集会所となるが、幕吏の目をくらますために、骨董屋を装った。文久元年三月、薪炭商・枡喜の養子に入り、ここを本拠に勤王活動を続けた。 元治元年、古高を中心に志士たちは連判状に署名し、尊攘派暴発の決議をした。しかし、発動を目前に、枡屋は新選組の手入れを受け、古高は壬生に連行された。池田屋事変の後、禁門の変が起こり、戦火は洛中を焼き、六角牢に迫った。七月十九日、古高は獄中に処刑された。三十六歳。墓は東山霊山と福勝寺(千本出水西入ル)にある。(石田孝喜) |
宮部鼎蔵(みやべ ていぞう 文政3年
4〜元治元年 6)
姓は中原、名は増美、鼎蔵と称す、号は田城、医者春吾の子。肥後国益城郡田城村出身。弟春蔵は禁門の変に敗れて、天王山で屠腹。鼎蔵は山鹿流軍学師範の叔父丈左衛門の養子となり、嘉永二年、跡を継ぐ。 同三年、熊本に来た吉田松陰と親交を結び、翌年二月に江戸へ上り、松陰に会い、暮れには、ともに東北地方を遊歴した。安政二年、弟らの喧嘩事件に巻き込まれ、免職となる。帰省中、文久元年十二月、清河八郎に会い、同二年、上洛して勤王の志士と交わる。翌三年、藩主の弟護衛に従い、再び上京、親兵の総監になる。八月十八日の政変により七卿とともに長州に下った。 元治元年夏、鼎蔵は松田重助、高木元右衛門とともに上京し、枡喜宅に潜んで、政局打開策を練っていた。下僕忠蔵が捕まえられ身の危険を感じ、小川亭に潜んだ。古高が逮捕され、陰謀が露見し、池田屋に会した鼎蔵は奮闘のすえ、切腹して果てた。墓は岩倉の三縁寺にある。(石田孝喜) |
深雪太夫(みゆきだゆう 生没年不詳)
近藤勇の愛妾。本名は未詳。生まれは一説に金沢という。大坂新町遊郭折屋の抱え女郎。元治元年ごろ、新選組御用達を務めた大坂八軒家京屋忠兵衛の斡旋により勇が請け出し、京都・醒ヶ井木津屋橋下ルところの休息所に囲った。新選組諸士調役を務め、勇の身辺の事情に明るかった島田魁の遺談によれば、当時年齢二十二、三歳、背のすらりと高い美人だったとある。勇も彼女には深い愛情を注いだようであるが、深雪は、それからわずか一年くらいで、病により世を去っている。 尚、大正十年に没した報知新聞記者鹿島淑男は自著「近藤勇」の中で、彼女の存命説をとり、明治四十四年、偶然同じ汽車に乗り合わせた京訛りの老婆が、実は深雪本人だったといい、彼女が語ったという話を載せているが、その内容は調査に基づいてはいるものの、聞き書き形式を用いた創作であると考えられる。(清水隆) |
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