この物語は、和歌山県日高郡道成寺町にある天音山道成寺に、一千年前から伝わる安珍・清姫の悲恋物語で、熊野参りの修験僧安珍が、熊野八庄司の一つ、真名子の里、清次の館に一泊し、はしなくもその家の娘清姫に思われ再会を誓う。仏罰を恐れた安珍が、帰路その館を素通りするので、執念凝ってヘビと化した清姫は、十六里(六十余キロ)を走って日高川を渡り、道成寺のつり鐘に隠れた安珍を鐘もろともに情熱の放射熱で焼き殺したという一大情炎ロマンスである。
映画化にあたってはいわゆる怪奇ものではなく、愛憎の美しさと激しさをうたったもので、演出は雷蔵とは初顔合わせの島監督。雷蔵・若尾のコンビで妖艶な恋模様をワイド画面に盛り上げようというねらいである。
クランクに先立ってこのほど西下した島監督は、これまたソフトタッチで有名な小原譲治カメラマンとコンテについて種々検討したが、島監督としては
「伝説というのは単純なものだ。歌舞伎にもラストのサワリが舞踊化されているだけで、ドラマとしても本格的に取り上げたのはいままでにあまりない。それだけに、この単純なストーリーをどう肉付けしてゆくかに大きな問題がある。まず第一に考えられるのは、真名子の宿で両人が出会った一夜に、肉体関係があったかどうかという問題。あったとすれば、ラストの追っかけというのは非常に不潔な感じがある。だからあくまでも清姫は純情かれんな娘という設定にして、そのあまりにも純粋なるがゆえに、安珍に自分の心を裏切ったという行動にたいする怒りで蛇身と化する・・・といった方が、女性心理のデリケートさを強調できると思う。」
「平安朝初期の当時の貴族社会で、庶民が出世しようと思う簡単な手段として僧籍に入る方法があった。安珍も奥州白河在の男で立身を願い、修験者になるうち次第に信仰に目覚めていった男で、そのプロセスに入ってきたのが清姫の愛情だ。若いだけにその出世欲、信仰への没入、それらのジレンマに陥って彼なりに苦しむ、そういう設定で二人の間を描いていきたい。 愛情の相克というのは古今東西を問わず、人間として普遍的な問題だ。だから名作ものの映画化というとケンラン絵巻を想定するが、こんどのはそれよりもいまいったような、心理を強調するわけで、それを縦横に出すには並々ならぬ会社の決意もあるだろうが、私としても現代人の共感を呼び得るものに仕上げたい。蛇身の場面は変に出すとグロテスクなものになるので、ファンタジックに情愛心理のあやを表現してみたい」と語っていた。
また小原カメラマンは、「時代劇は初めてです。島さんは時代劇ではベテランといえない。会社がその二人に時代劇をやれという注文は、常識的なものを追求して得られないものをと思う。愛情というテーマにたいして私のつとめは、雷蔵・若尾の二人の愛情の表現を、美しいアングルでとらえることにあるのだろう。ラストの日高川のくだりは、全編ロマンチックな雰囲気なのに、そこへ大蛇が出るとブチ壊しになるので、そのへんは特撮で、大蛇は出すが全体のトーンとしてはファンタジックなものを盛り上げてゆきたい」と語っていた。 |