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(01/25/58発行)

 

 

 

 

 
弁天小僧のこと

 弁天小僧と云えば浜松屋、「知らざア云ってきかせやしょう」の名セリフがつきもの。今度はお父様の寿海丈が御指導なさると云うので、江戸前の啖呵が存分に聞ける事と期待していましたのに中途で切れてしまって、肩すかしをくったような物足りなさを感じました。それにしても、しおらしい娘振り、私は歌舞伎時代の雷蔵さんを知りませんでの、こんなにも美しく変られるものかとあきれたり、驚いたり、唯、声がもう少しやさしかったら一層素晴しかったこととちょっぴり残念です。

 とにかく観ていて胸のあつくなる程、純情な人間菊之助のもろさと云うか、弱さがよく出ていたと思います。最近の雷蔵さんはくだけた物がよく似合っていらしたと思うのですが、『炎上』以来、特にそれを感じます。

 股旅物や町人物ばかりでなく、時宗の時にも何か大らかなゆとりと云ったものが見受けられました。つまり今までの硬さから脱皮して、円熟への途を開いて行かれる。この意味からでも、現代劇出演は確かにプラスしたと思います。だから、今後も大いに機会あらば出演して頂き度いと思うのです。

 相変わらずの眼の美しさは、二階の障子の陰からさっとみすえた鋭さ!印象的でした。それから、ラブシーンの思いきった演出にも少々舌を巻いてしまいましたが・・・。特にラストシーンの思いつめた表情から、次第に自失に変って行く動きの巧さ!思わず「成田屋!」と叫びたくなった程でした。

 なにはともあれ、五十本記念に相応しい力作であり、我が雷蔵さん益々健在なりの感一入、尚、一層の御活躍をお祈りしてやみません。(下関 大村)


弁天小僧

 東京のファンの方と三人で新宿大映で見た弁天小僧。わざわざ上京した甲斐が有って、とても楽しかった。特に目立った収穫が二つ。

 一つはラブシーン、雷蔵さんも苦手だと云っておられたように、今迄のラブシーンは何となく照れて、此処でもう一押という肝心な処で目を外らせたりして物足りなかったが、今度は立派に成功。お半の心の奥まで見透かすようにじっと見つめた目の色の深さといい、自然に唇を合せる過程も少しもおかしくなく、此調子ならラブシーンの多い世之介も安心です。

 今一つは立廻り。これも雷さんの立廻りでこんなに活気あふれたのは初めて、宮内昌平さんの殺陣が良かったせいも有るが、雷さんがこれ程身軽に動けるとは思いませんでした。失礼だが今迄は立廻りの無い方が好きだったが、今後は立廻りにも大いに期待したい。

 特出していた場面は、ラストシーン。屋根の上から、肉親、恋人に最後の別れをつげるシーン。セリフも良かったし、表情も良く、だんだん潤んでくる瞳、スーッと一筋つたわる涙、吸い込まれるような美しい瞳でした。判官、炎上、弁天と雷さんの涙は人工を感じさせず、本当に巧いと思います。私の目も何時しかボッーと霞んで、『弁天小僧』は『炎上』以来好きな作品になりました。

 これを見ても、俳優は良いシナリオと良い監督さんに恵まれなければ駄目な事が解ります。『好色一代男』が、雷蔵さん位ファイトを持って下さる監督さんに当ります様祈って止みません。(熱海 横井とみこ)


弁天小僧から

 海の向うでパット・ブーンが、映画でのキスシーンを総て拒否したと、何かで読みました。此の映画を観て、雷蔵さんのラブシーンに、ふっとこんな記憶が思い浮かんだ事でした。仕方なくなく演ってしまったと云いたげな、青山京子さんとのひとこまでした。

 大体私は、邦画のキスシーンでは目をつむる事にしているのですけれど、今度ばかりはそれを破りました。勿論、好奇心ではありません。此の場面は、雷蔵さんの持味が却って邪魔した結果になりはしなかったでしょうか、あくまで芝居なのだから、演技が地でマイナスされて了ったら損になるでしょう。もう一つ意地悪な事を云いますと、船宿で身動き出来なくなった捕方の首に匕首を突き立てるところは、一寸殺し方が雷蔵さんらしくなく(勿論元々芝居なので無理な事かもしれません)、少しばかり抵抗を感じます・・・。

 さて、好き嫌いは別として、青山京子さんの共演は、何かフレッシュな感じで、大映カラーに一滴のヴァニラの香りと云えそうな後味の良さでした。つづけて淡路恵子さんあたりと共演なされば、多少気になる京なまりなど消えているような気がします。でも何と云っても楽しい映画でした。特に私の最も好きな匕首での立廻りがふんだんにあって、本当ならば、批評などしたくはなかったのでしたけれど・・・

 そして序にお願いを、雷蔵さん世之介になったら、もっともっと貪欲に、そして藤十郎の様にエゴイスティックになって下さる様に。(静岡 まりあ・かたりな)


弁天小僧を観て

 待望の『弁天小僧』が雷蔵さん主演で映画化に、監督には伊藤大輔氏と決定した時、これは良い作品が出来ると密かに期待致しました。それから封切になる迄の何と待ち遠しかった事か・・・。

 最近の雷蔵さんの活躍には目ざましいものがあります。『炎上』『日蓮と蒙古大襲来』の時宗等、そして『弁天小僧』が期待通り好評を博したのですから、こんなにうれしい事はありません。

 寺小姓の初々しさ、クライマックスの浜松屋のシーンで初めて女形姿を拝見致しましたが、あまりの美しさで、溜息が出る位でした。素晴しい声で、胸のすくような啖呵を切った雷蔵さんの『弁天小僧』は正に日本一だったと思います。これでは、一度ならず再三観たくなるのも無理はないでしょう。

 青山京子さんとの共演はフレッシュコンビと云う名がぴったりするように新鮮で感じの良いものでした。伊藤監督が(歌舞伎の白浪弁天小僧でなく、今で云うグレン隊の様なチンピラヤクザを描きたい)と云っておられたが、その点、この映画はリアリティーな『弁天小僧』が実によく描写されてありました。

 頽廃的な生活をして、悪事を働いていた菊之助が初めて真実の恋を知り、やがて真の親があったと知った時の心理状態の移り変りを雷蔵さんは見事に演じています。

 印象に乗ったのはラストシーンでした。恋しい父や妹や恋人を目の前にしながら、自分の身分を明かす事が出来ず、苦しい思いを胸に秘めたまま自害して果てた菊之助・・・。スクリーン一杯にクローズアップされたあの絶望にくもった眼差しや、悲痛な程の痛々しい雷蔵さんの姿が、今でも私の目の前にありありと浮んでなりません。これらは皆、人間の厳しい宿命を物語っているのでしょうか。

 『弁天小僧』が悪の肯定になってはいけないし、観客の夢をこわしてもいけないと云われた通り、最後にはやっぱり親孝行で暖かい人間だったのだ、と云う事を観客に印象づけています。最初から最後迄退屈せず、楽しく、且つ緊張と迫力で観る人々をひきつけていたのは、さすがにベテラン伊藤監督の手腕に依るものでしょう。パーソナリティーをいかされて、リアルな演技をされた雷蔵さんは、ここで又新境地を開かれたと云えるのではないでしょうか。

 新しい年を迎え、今後の御活躍を期待すると共に、昨年にもまして良いお年である事を切に祈るものです。(登坂八重子)


雑感

 秋晴れの十一月二十九日、用事もそこそこに通いなれた築地大映に飛込みました。『弁天小僧』の封切日で、併映は私の大好きな鏡花もの(注:山本富士子主演『白鷺』)。昼過ぎで、館内は超満員。あおく凄艶な死顔の小篠を抱くシーンに泪して、さて『弁天小僧』の開幕。雷蔵さんの寺小姓ぶりや、その口調にチョット歌舞伎時代を思い出しました。

 役の性格が雷蔵さんには珍しいものですし、手の早い菊之助が、二階でお半に迫る場面は、伝え聞く巴里のアパッシュ(注:19世紀末から20世紀初頭のパリにおいて、路地裏で強盗などの犯罪に手を染めていた若者の総称。現在では、日本語の「ならず者」や「チンピラ」に近い意味で使われる。もかくやと思わせるほどで、少々ドキリとしました。やがて、かねて聞き及ぶ川端のラブシーンとなり、まだ二度目の出逢い乍ら、若い二人のこと、筋書きではうなづけるキスシーンも、さて画面の感じはどうかしらと見守っていた私は、思わずクスッと笑って了いました。

 ところが、それは私一人でなく館内一杯に笑いの波が寄せたのです。爆笑ではないけれど、他の観客が笑ったのは何故かしらと気になりました。どうもピッタリこなくて、自分が笑った点は説明できますが、過日「よ志哉8号」で、巻頭に雷蔵さんが述べておられる様に、役の性格−時代劇の枠にこだわらぬ、新鮮な感覚の演技という見方をすれば、時代劇のキスシーンと云えど、少しもオカしい訳はない筈なのにと思います。

 作品としても、女をだまして売りとばしたり、人を殺したり、いわば今の愚連隊の様に弁天小僧を描き、雷蔵さんも江戸前のヤクザを好演して哀感もあり、とても面白く見られたのですが、今、私は雷蔵さんの苦手とされるラブシーンについて、今迄の多くの作品を顧みる時、名コンビと思われる嵯峨さんをはじめ他の方々との、それぞれ美しく情熱的な色模様の中で、『編笠権八』を思い出します。

 権八を仇と狙う姉妹の、近藤さん扮する妹娘と心が相寄って、場所は忘れましたけど路上に二人、権八が私を斬れと云い、妹娘が私には出来ない!とかのセリフがあった時と思いますが、抱き合う二人のアップから、カメラが足許に下って、二人の足がぐっと近寄ったカットは(その時、簪か懐剣が落ちた様な気がします)ハッとする程の情熱を感じましたし、武家育ちの若い男女のラブジーンとして、清潔乍ら一瞬の強い愛情を伝えるに充分な場面でした。勿論、弁天は町育ちのやくざで、お半も折目正しい武家の出乍ら、ひたむきな娘ですから、そこに自ずと違いはあり、その点は演出の領域になりますが、抱き合うだけに留めたシーンのほうに、新鮮味はないけれど、私は余韻を感じます。まともな時代劇の、まじめなラブソーンで笑った事について考えてみましたが、それはそれ、テンポも快調で、大変楽しく拝見いたしました。(大船 康子)