(藩幕関係者六名、角川日本史辞典76年版より 除:上杉綱憲)

 

徳川綱吉 とくがわつなよし(正保3年-宝永6年 1646-1709)
 江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の4男。母は本庄氏。院号常憲院。上野館林15万石の領主であったが、1680(延宝8)年家綱の養子となり将軍職を継いだ。
 はじめ堀田正俊を大老とし政務に励み、一方江戸湯島に聖堂を移し、朱子学を官学とするなど文治主義をとった。しかし、正俊の死後は実権を側用人柳沢吉保にゆだね、また勘定奉行荻原重秀の進言により、財政窮乏打開策として年貢増徴、悪貨乱発を行い、奢侈生活をして元禄文化を出現したが、生類憐みの令をしくなど弊政が多かった。

 清水将夫

柳沢出羽守吉保 やなぎさわでわのかみよしやす(万治元年-正徳4年 1658-1714 )
 江戸幕府の老中。甲府藩士。通称主税・弥太郎、初名房安、保明。上野館林藩主徳川綱吉の臣で、綱吉が5代将軍となるや1688(元禄1)年側用人となり、綱吉の側近として活躍。たびたびの加増で、94川越藩7万石、老中格、98老中上座を与えられ、1704(宝永1)甲府藩15万石となる。
 09年綱吉の死後、子吉里に家督を譲り、隠棲。その間元禄の政治の中心としていわゆる文治政策を推進した。

 市川雷蔵

浅野内匠頭長矩 あさのたくみのかみながのり(寛文7年-元禄14年 1667-1701)
 播磨赤穂藩主。広島浅野氏の支流。長友の子。内匠頭。1701(元禄14)年勅使江戸下向にあたり接待役になったが、礼式指南の高家吉良義央に侮辱を受け、3月14日江戸城中で義央に切りつけ、即日除封、切腹。


 長谷川一夫

大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしたか(万治2年-元禄16年 1659-1703)
 播磨赤穂藩の家老。赤穂義士の首領。通称内蔵助。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に儒学を学ぶ。1701(元禄14)年主君浅野長矩が江戸城中で吉良義央を傷つけ切腹を命じられ領地を召し上げられると、浅野家の再興をはかったが受け入れられず、02年、12月14日赤穂義士46人とともに江戸本所吉良邸に討ち入り、仇を討った。
 03(元禄16)年、2月切腹。泉岳寺に葬られた。


 滝沢修

吉良上野介義央 きらこうずけのすけよしひさ(寛永18年-元禄15年 1641-1703)
 「よしなか」とも呼ばれている。江戸中期幕府の高家。義冬の子。1701(元禄14)年勅使下向にあたり接待役となった赤穂藩主浅野長矩に典礼を教えたが、長矩を辱めて城中で切られ負傷。長矩は即日切腹・改易を命ぜられた。義央は御役御免のみであった。
 そのため赤穂義士により翌年12月、本所松坂町の隠居所を襲撃され殺された。


 船越英二

上杉綱憲 うえすぎつなのり(寛文3年-宝永元年 1663-1704)
 出羽米沢藩第4代藩主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、母の実家上杉氏に養子入りする。藩主在任中は、教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方、吉良家の普請買掛金を負担や社寺・城等の建築、参勤交代の華美にし、能への傾倒などで財政窮乏を悪化させた。1703(元禄16)年、病を得て隠居し、翌年6月死去。母富子は、同年8月に死去している。(Wekipediaより)


▲大映映画『忠臣蔵』:戦後映画化作品の中で最も浪花節的かつ講談調で娯楽性が高く、リアリティよりも虚構の伝説性を重んじる当時の風潮が反映されている作品であり、『忠臣蔵』の初心者が大枠を掴むのに適していると言われている。