松之大廊下跡
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■松之大廊下跡 江戸城内にあった大廊下のひとつ。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称された。ただし、「江戸御城内御住居之図」の当該部分には「松ノ御廊下」と記され、「マツノヲンロウカ」と読み仮名が振られる(ライデン大学図書館蔵、『長崎出島からの旅 ヨーロッパに眠る日本の宝 シーボルト・コレクション』(シーボルト・カウンシル編、1990年)140頁に写真所収)。 元禄14(1701)年3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使供応役であった浅野長矩がこの廊下で高家肝煎の吉良義央に斬りつけた事件で一般的にも有名である。 現在、皇居東御苑内の松之大廊下があった場所には所在を示す碑が建てられている。ちなみに『忠臣蔵』関連の時代劇では襖絵に巨大な松が描かれている作品があるが、実際の襖絵は松並木が続いたものであり、史実に反する。 |
<住所> 千代田区千代田1皇居東御苑内 <交通> 東京メトロ千代田線「大手町駅」より徒歩10分 |
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平河門
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■平河門/不浄門 午の下刻(午後1時頃)奏者番の田村建顕(陸奥一関藩主)の芝愛宕下にあった屋敷に 預けとなった浅野内匠頭長矩は一関藩士75名が網駕籠に乗せ不浄門とされる平川口門より出て芝愛宕下の田村邸(現港区新橋4丁目)へと向かった。 平川門の右側にある小さな門。 |
<住所> 千代田区千代田1 皇居東御苑内 <交通> 東京メトロ 東西線「竹橋駅」より徒歩5分 |
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浅野内匠頭終焉之地石碑 (港区産業観光ネットワークより)
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■浅野内匠頭長矩終焉の地 (一ノ関藩田村邸跡) 芝愛宕下に奥州一ノ関藩3万石、田村右京太夫武顕(たけあき)の上屋敷があった。 申の刻(午後4時ごろ)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収用され、着ていた大紋を脱がされたという。その後1汁5菜の料理が出されたが長矩は湯漬けを二杯所望したという。田村家では即日切腹とは思いもよらず、当分の間預かりと考えていたようで、長矩の座敷の襖を釘づけするなどしたという。 . 申の刻(午後5時ごろ)幕府の正検使役として庄田安利(大目付)、副検使役として多門(おかど)重共、大久保忠鎮(目付)らが、田村邸に到着し、出会いの間にて浅野長矩に切腹と改易を宣告した。切腹場所が庭先であることで、多門と大久保は「武家の作法に反する」抗議したが大目付の庄田には受け入れられず庭先での切腹となった。 浅野内匠頭長矩の辞世の句
「風さそふ、花よりもなほ我はまた、春の名残をいかにとやせん」 遺骸は浅野家から用人「粕谷勘左衛門」留守居役「建部喜六」、小納戸役「中村清右衛門」、同「田中貞四郎」、それに片岡、磯貝の6名が引き取りにゆき、泉岳寺に埋葬した。(寂しい埋葬であった) 切腹の場所のことで浅野家本家の松平安芸守綱長が使いを田村邸に差し遣わし、「庭先での儀は、何れよりの指図か」との申し入れがされた。老中秋元但馬守は若年寄列座の中で庄田、大久保、多門(おかど)の三検使に対し、「なにゆえ、内匠頭に士庶人の取り扱いにしたのか」と糺した。庄田の答えは曖昧であった。大久保と多門は「庭先での切腹はいかにも不都合と抗議したが」上司である庄田下総守に受け入れられず、指図に従った。その結果、庄田下総守は不束の廉をもって大目付を罷免させられた。 |
<住所> 港区新橋4-28-31付近) <交通> JR「新橋駅」より 徒歩15分 |
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■赤穂藩上屋敷跡 (現聖路加看護大あたり) 赤穂藩が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3(1657)年のことである。 それまでの上屋敷は外桜田にあった。備中国高梁藩との相対替えによって移転した。 浅野家初代藩主長直の治世時である。 元禄14(1701)年に幕府に公収されるまでの間 赤穂藩の上屋敷であった。長矩が生まれたのもこの屋敷であった。 |
<住所> 中央区明石町10 <交通> 東京メトロ 日比谷線「築地駅」より徒歩10分 |
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松坂町公園(旧吉良邸一部)
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■吉良上野介義央邸跡 吉良邸の広さ:総坪数2,550坪(約8,415u)/母屋建坪約388坪(約1,280u)/長屋建坪426坪(約1,400u)長屋は30軒 。 浅野内匠頭長矩切腹、赤穂藩藩お取り潰し後の元禄14年8月19日、幕府は吉良上野介に対して、呉服橋の屋敷から本所(墨田区両国3丁目)の松平登之助の上げ屋敷へ屋敷替えを行った。さらに、その直後の8月21日には庄田下総守(浅野内匠守を庭先で切腹させた大目付)、大友近江守義孝(吉良と仲良くしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の3名に対し「勤めが良くない」などと咎めて役職を罷免した。 吉良上野介は12月12日に家督を外孫で養子の吉良義周に譲り、隠居を申し出た。現在の吉良邸跡は首洗い井戸周辺の約30坪(約100u)を地元有志が購入し、昭和9年に東京市に寄付したのが現在の吉良邸跡として残っている。当時の吉良邸は現在の吉良邸跡の約85倍の広さがあった |
<住所> 墨田区両国2-13 松坂町公園 <交通> JR総武線 「両国駅」下車 徒歩10分 |
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回向院山門 |
■回向院 討ち入りが終了し、引き揚げで裏門を出た際、待機と休息のため、すぐ近くの無縁寺(回向院)を目指した。義士たちが無縁寺の山門で寺僧と掛け合ったが、寺側では返り血を浴びて血だらけの彼らを見て、関わりを恐れ山門を開けなかった。そのため両国橋東詰で移り小休止を取ることにした。 |
<住所> 墨田区両国 2-8 <交通> JR総武線 「両国駅」より 徒歩5分 |
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赤穂義士休息の地石碑
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■赤穂義士休息の地 討ち入り後、隅田川沿いに南下し、万年橋を渡り、永代橋の手前にあった味噌問屋乳熊屋で休息した。 乳熊屋の主人作兵衛は俳人宝井其角の門人で、浪士の一人、大高源吾とは俳諧の友同士であったため、寒さと疲労の赤穂浪士たちを、暖かい甘酒で迎え、しばしの休息を取ることが出来た。現在でも、赤穂義士討ち入りの12月14日には甘酒を店先でふるまっている。 |
<住所> 江東区佐賀1-6 乳熊(ちくま)ビル <交通> 東京メトロ 東西線「門前仲町」より徒歩15分 |
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現在の永代橋
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■永代橋 元禄11(1698)年、関東郡代伊那氏が日本橋と深川を結ぶ橋として架けた。 上野寛永寺の根本中堂建設の残材を使用して架けられた。優美な虹型の橋であり、ここより富士山の眺めがよいので、広重などの錦絵にたくさん描かれている。 赤穂義士たちは、この橋を渡っていった。 |
<交通> 東京メトロ東西線「門前仲町駅」より徒歩15分 |
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■赤坂氷川神社 (阿久里実家三次藩浅野家) 浅野内匠頭長矩切腹後、正室である阿久里(搖泉院)は実家である三次藩浅野家屋敷(現氷川神社あたり)に戻っていた。 討ち入り直前、大石内蔵助良雄は南部坂の三次藩邸の搖泉院のことろへ最後のあいさつへ向かうが、吉良か上杉の間者が聞き耳をたてているので口頭で討ち入りのことを伝えることが出来ず、その場では「他家に仕官するので最後に殿に焼香させてください」と述べた。それを聞いた搖泉院は激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。 大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた連判状を置いて立ち去る他になかった。そして邸外から搖泉院の方に向けて土下座して不敬を詫びたというもの。 後に、連判状を見た搖泉院は、大石に対した仕打ち後悔し詫び、討ち入り後の義士家族たちの面倒を最後まで真摯にみた。 |
<住所> 港区赤坂6-10-12 <交通> 東京メトロ千代田線「赤坂駅」より徒歩6分 |
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仙石伯耆守屋敷跡(現日本消防会館)
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■仙石伯耆守屋敷跡 赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きた元禄15(1702)年当時、幕府大目付だった仙石伯耆守久尚の屋敷があった。主君の仇を討ち本所から泉岳寺に向かう途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名をこの仙石屋敷に出頭させ、討ち入りの件を報告させた。 他の浪士も、浅野内匠頭の墓前に報告を済ませたのち、ここへ自首してきた。 この時邸内には、浪士たちが足を洗ったという「義士洗足の池」があったとされているが 現在は残っていない。日本消防会館ビルに説明のプレートがあるのみである |
<住所> 港区虎ノ門2-8 日本消防会館ビル <交通> 東京メトロ銀座線「虎の門駅」より徒歩5分 |
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札の辻 (右へ行くと日本橋方面。左へ行くと虎の門から江戸城へ)
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■札の辻 義士たちは午前4時ごろから約2時間の死闘を終え、両国から泉岳寺まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩いた。 それも鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったいわれる。 間新六が札の辻まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまった。その時父の間喜兵衛が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱ったところ、しばらくして 立ち上がり泉岳寺まで歩いたという。 |
<住所> |
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泉岳寺山門
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■泉岳寺 曹洞宗万松山泉岳寺 寛永18年、現在地に移転した。高輪に移転するにあたり、三代将軍家光は命により毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の大名が堂宇に再興に当たったので、浅野家の菩提所になったと伝えられる。 赤穂義士たちは、泉岳寺で浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を備え 仇討ちの報告をしたのち、大目付役仙石伯耆守屋敷へ呼び出され、大名4家に一時預けと決まった。切腹後の義士の遺骸は寺社奉行の許可を得て、泉岳寺に送られることになったが、間真六については親戚の願いにより引き渡され、築地本願寺に葬られた。 4家が普請方を出し、墓所を造り夜明けの午前4時頃に全ての埋葬が済んだ。 各自の法名には切腹を表す「剣刃」二字がついている。付いていないのは、寺坂吉衛門の墓のみである。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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大石内蔵助銅像
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■大石内蔵助銅像 泉岳寺山門の横に立つ、大石内蔵助義雄像。 像は南の赤穂の地を望み、手には討ち入りの 連判状を持っている。 大石内蔵助の心中は何を思っているのであろうか・・・。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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首洗いの井戸
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■首洗いの井戸 吉良邸より持ち帰った吉良上野介の首級をこの井戸で洗ったのち、浅野内匠頭の墓前に 備えたと伝わっている。その後、吉良上野介の首級は寺社奉行の指図に従い、本所吉良邸に届けられた。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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浅野内匠頭墓
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■浅野内匠頭長矩の墓 法名:冷光院殿前小府朝散太夫吹毛玄利大居士、元禄14年3月14日切腹。享年35歳播磨赤穂藩5万3千石城主。 江戸城中において、高家筆頭吉良上野介義央に刃傷、即日、愛宕下田村右京太夫邸において切腹。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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内匠頭夫人・瑶泉院墓
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■瑤泉院の墓 (浅野内匠頭長矩の妻) 法名:「瑤泉院殿良螢正澄大姉」 三次5万石城主 浅野因幡守長治の娘。討ち入り前に大石内蔵助が最後の別れに来た際、慎重を期して討ち入りを告げず別れた。その際、搖泉院は大石の心を知らず。不忠臣と罵り、後に大石の心を知り 後悔をした。その為、赤穂義士切腹後の義士の家族の面倒を見ることに尽力をつくした。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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大石内蔵助の墓
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■大石内蔵助墓 大石内蔵助良雄(よしたか) 享年45歳 赤穂藩筆頭家老、禄高1500石 浅野内匠守長矩切腹、御家断絶後、 長矩の弟で養子の長広による浅野家の再興を幕府に働きかけるが、長広の広島藩浅野家お預けが決まり、御家再興の望みが絶たれ、京都の円山にて会議を持ち、主君の仇を討つことを決定する。 元禄14年12月14日赤穂浪士47名は吉良邸に討ち入り吉良上野介義央の首級を挙げ、主君の無念をはらすことが出来た。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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大石主税の墓 |
■大石主税の墓 大石主税良金 享年16歳 大石内蔵助の嫡男 母りくにて大柄(身長174cm)であったという。元服して良金(よしかね)を名乗る。 父良雄は妻子を離縁するが、嫡男主税は 父に従い円山会議に出席し、討ち入りの際は裏門隊の大将を務めた。討ち入る後は、父と別の松平隠岐守邸に預けられ 元禄15年2月4日幕府の命により切腹。 父と同じ泉岳寺に眠る。
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<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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堀部安兵衛の墓
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■堀部安兵衛の墓 堀部安兵衛武庸(ほりべやすべいたけつね) 享年34歳 馬廻り 越後新発田藩士中山弥次右衛門の子、 名は武庸(たけつね)。 元禄7年高田馬場にて伊予西条藩菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し有名となる。赤穂藩士堀部弥兵衛に望まれて養子となる。藩主浅野内匠頭長矩切腹後、終始仇討推進派として活躍した。 |
<住所> 港区高輪2-11-1 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩3分 |
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大石内蔵助ら切腹の地説明板
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■熊本藩細川家下屋敷 元禄15年12月15日夜、仙石伯耆守邸に移されていた46名中、大石内蔵助をはじめとする17名が細川邸にお預けとなった。 この細川邸における2か月間の記録が克明に残されている。他家にお預けとなった大名家よりかなり良い待遇であったという。 藩主細川綱利は何度も幕府に助命嘆願したといわれ、助命の暁には細川家に召し抱えるつもりでもあったらしい。その願いも虚しく、翌年2月3日切腹を命じられ、翌日執行された。亡骸は高輪泉岳寺に眠る浅野内匠頭のすぐ脇に葬られた。 |
<場所> 港区高輪1-16-25 <交通> 都営三田線「泉岳寺駅」より徒歩15分 |
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毛利家・赤穂義士切腹の地
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■長府藩毛利家下屋敷跡 (現六本木ヒルズ)長府藩は長門府中藩で長州藩毛利家の支藩。この藩は義士たち対し、なかなか厳格に対処し、 犯罪人を遇するようであったという。ここには岡嶋八十衛門ら10名が預けられた後、切腹をした地である。 |
<場所> 港区六本木6-9-11 <交通> 東京メトロ日比谷線「六本木駅」下車 |
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水野家・赤穂義士切腹の地
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■岡崎藩水野家下屋敷跡 岡崎は徳川家康誕生の地であり、水野家は徳川家と親密な関係にあった。 この屋敷には、奥田貞右衛門、神崎与五郎ら9名が預けられた。 赤穂義士の中では、身分が低いものが預けられた。その為熊本藩細川家に比べると待遇はあまり良くなかった。 |
<場所> 港区芝5-20-20 <交通> JR「田町駅」より徒歩5分 |
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大石主税ら切腹の地(現イタリア大使館) |
■伊予松山藩松平家下屋敷跡 (現イタリア大使館) 寛永12(1635)年、家康の異父弟松平定勝の子、定行が桑名より15万石で松山城主なった。 この屋敷に大石主税、堀部安兵衛ら10名が預けられた。 対応は、熊本藩細川家や岡崎藩水野家と比べると悪かった。 |
<場所> 港区三田2-5-4 <交通> JR「田町駅」より徒歩15分 |