三隅研次 〜抑圧と殺気の映画〜 

 線と陰翳

 三隅研次は大映の社員監督として会社の命令に従いながらも、厳しい制約の中で我流の映像美を確立し、孤独な剣士の生きざまを描き続けた。その代表作の多くは、大スター市川雷蔵の代表作と重なる。つまり、シリーズ化を決定づけた『眠狂四郎勝負』(1964年)も、「剣三部作」として知られる『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)も三隅監督作なのである。もとより雷蔵は『新・平家物語』(1955年)や『炎上』(1958年)ですでにスターの座にあったが、孤独な剣士のイメージが定着したのは三隅作品によって、と言っていいだろう。

 三隅は日本家屋の線的な美しさを徹底して映像にとりいれ、襖や障子や畳や床といったものを完璧に様式化した。いわば線と陰翳の世界である。そこに剣士が姿勢正しく坐す構図は、三隅の手にかかると、格調高いものになる。その空間に、対立する人間を配置させると、おそろしく張りつめた緊張感が生まれる。結果的に、誰かが死なずには終わらない、という異様な殺気がみなぎることになる。

 しかしながら、通常のチャンバラ映画と違い、主人公の剣士がいくら強くても、いくら人を斬りまくっても、そこにヒロイズムはなく、どこか悲しく、虚しさが漂っている。そんな主人公を、市川雷蔵のように色気があり、「底の方の悲しみが出せる人」(三隅による雷蔵評)が演じるとき、映画はえもいわれぬ妖光を放つのだ。

三隅映画の音

 音の扱いにも、映像派らしい配慮がみられる。登場人物たちの内なるエモーションを代弁するのは、垂れ流しの音楽ではなく、鳥の声や虫の声、あるいは風の音である。『斬る』の最後では、高倉信吾(市川雷蔵)が水戸藩に謀られたと気付いた後、刺客に狙われている松平大炊頭(柳永二郎)を助けるべく城内を探し回り、襖を次々と開ける。このシーンでは一切音楽が使われない。ただ鶯が啼いているだけだ。それにより信吾の不安な胸中が観る者に伝わってくるのだ。時代劇に限らず、京マチ子、若尾文子など豪華女優を配した遺産相続ドラマ『女系家族』(1963年)でも、さんざん踏みつけにされた妾の文乃(若尾文子)が、最後の対決の場に乗り込むシーンで虫の声が効果的に使われる。

 私見では、劇伴に依存するのは映像派の三隅の意向に反することで、自然界の音と無音の使い分けで十分観客を牽引できるという気持ちが人一倍強かったのではないかと思われる。なので、三隅美学の濃度が比較的高い「剣三部作」では、いかにも剣士モノにありがちな勇壮な劇伴を使わず、観客が音楽を入り口にして感情移入することを周到に避けている。

 ただし、音楽が比較的多用されていても、三隅の美点を味わえる作品はある。例えば、ロマンティックな仇討物『編笠権八』(1956年)。これは父の仇と知らず恋心を抱く女(近藤美恵子)、その仇が自分であるとは気付かず彼女に剣術を教える男(市川雷蔵)の話で、「権八郎は仇の汚名で死ぬのではない。恋のために死ぬのだ」という台詞に象徴されるように、恋愛に重きが置かれている。上映時間65分とは思えないほど起伏に富んだ内容で、しかも品が良い。笛の使い方もうまいし、音楽は決して無駄に流れているわけではない。

登場人物が抱える抑圧と孤独

 出自にいわくがあり、純粋で、孤独な人間が、疎外され、抑圧され、嫉妬され、目の敵にされるパターンも、三隅好みである。『斬る』も『剣鬼』も主人公の出自が複雑だし、『剣』の主人公も家庭に問題を抱えている。眠狂四郎は異人と日本人の間に生まれた子だ。『新選組始末記』(1963年)の山崎烝(市川雷蔵)は、出自や家庭がどうこうというわけではないが、土方歳三(天知茂)たちに疎んじられるほど純粋で高潔である。『編笠権八』の権八も、仕官の道を拒む無欲な男だ。にもかかわらず、剣の腕が立つゆえに周囲の恨みを買い、一方的に憎悪の的にされる。

 こういった人物を扱うとき、三隅はひときわ監督魂を燃やした。それは妾腹の子であり、シベリア抑留経験者であり、社員監督として酷使される身でもあった彼自身の反骨のあらわれだったのかもしれない。完全無欠のヒーローが敵に天誅を下すだけの話は、三隅向きではない。

死にゆく者の比重

 勝新太郎を大スターの座に押し上げた『座頭市物語』(1962年)でも、勝新を讃美するような単純な撮り方はしない。私などがこの映画を観て惹かれるのは、座頭市(勝新太郎)よりも、ひやりとした虚無感を漂わせる病身の平手造酒(天知茂)である。監督のシンパシーは、むしろ死にゆく平手の方にあると言いたくなるほど、存在感を示しているのだ。

 似たようなことは、勝プロで撮った「子連れ狼」シリーズにも言える。拝一刀(若山富三郎)の殺陣は確かに格好良いが、『死に風に向う乳母車』(1972年)のような作品だと、死に場所を失い、絶望している元侍の官兵衛(加藤剛)の扱いに重きが置かれている。風が吹き砂塵が舞う中、官兵衛が切腹し、拝一刀が介錯するラストシーンはその最たる例で、カメラは官兵衛の生首の目となってぐるぐる転がる。そして生首の視点で、かつて公儀介錯人だった拝一刀に侍として斬られた自分の首なしの姿を見て、成仏するのである。

 殺し合いをすれば死体が出る。その死体を隠さない。『新選組始末記』でさえ、池田屋で激しい斬り合いをみせて盛り上がった後、惨殺された死体を片付けるシーンで終わる。『剣鬼』のラストも、綺麗な花畑が大勢の死体で覆われる。この監督は、「死」というものをベタついた感傷抜きにはっきりと観客に見せる。殺されて可哀想だとか、殺し合いは良くないとか、そんな感情の入り込む余地はない。

役者の美しさ

 雷蔵、勝新のみならず、天知茂も贔屓にしていた俳優の一人で、重要な役を任せていた。知的で、ニヒルで、色気があり、眼光の鋭い天知は、三隅映画の引き締まった画調に惚れ惚れするほどはまっている。天知自身も「三隅監督の映画だったら、どこでも、タダでも出たかった人」(天知夫人の証言)だった。しかし、三隅の天知贔屓が行き過ぎた例がある。『眠狂四郎無頼剣』(1966年)の敵役・愛染だ。この作品では、主役の狂四郎より愛染の方が(衣装も含めて)目立ってしまったため、雷蔵がひどく怒ったという逸話が残っている。

 三隅は剣の道に生きる男のみを描いていたわけではなく、先にふれた『女系家族』しかり、女優の見せ方にも光るものをみせていた。『編笠権八』や『新選組始末記』では近藤美恵子のたおやかさが芳香を放っているし、『千羽鶴秘帖』(1959年)では左幸子が鉄火肌の女を好演し、市川雷蔵(ここでは飄々として明るい役)と共に、鈍くなりがちな映画のテンポを支えている。『斬る』の冒頭の殺害シーンで何度も駄目出しをされ、監督から徹底的に追い込まれたという山口藤子役の藤村志保の演技も素晴らしいし、『眠狂四郎勝負』で狂四郎に「豚姫」呼ばわりされ、怒りに震えながらも、最後は狂四郎の魅力に負ける高姫役の久保菜穂子も美しい。『鬼の棲む館』(1969年)で元白拍子・愛染を演じる新珠三千代の色気、否、妖気も凄い。「上人様、上人様......」と迫りながら高野の上人(佐藤慶)を煩悩地獄へと引きずりおろす魔性の女ぶりにゾクゾクさせられる。

美学一代

 『剣鬼』にこんな台詞がある。「拙者の技、生あるうちに誰かに会得してもらいたかった。お手前はそれをよくなされた。その刀を贈ることは拙者の今生の喜び。さらば」━これは居合の達人である老剣士(内田朝雄)が己の剣術を伝授した後、斑平(市川雷蔵)にかけた言葉だ。雷蔵が夭折した後も、大映が倒産した後も、三隅は映画とテレビの両方で監督を続けていたが、1975年に54歳の若さで急逝した。没後の評価は一貫して高く、ファンも絶えることがない。しかし、真の意味で三隅美学を受け継ぐ監督はいない、というのが現実である。

(阿部十三/2016.08.28)

[参考文献]
石川よし子編著『市川雷蔵』(1995年12月 三一書房)
野沢一馬著『剣 三隅研次の妖艶なる映像美』(1998年3月 四谷ラウンド)
臼井薫、円尾敏郎編『天知 茂』(1999年6月 ワイズ出版)

[三隅研次略歴]
1921年3月2日(3日とも)、京都生まれ。父は海運ブローカー、母は芸妓。立命館大学卒業後、日活へ。戦中は満州の防空隊に属していたが、ソ連軍に捕まり、3年以上をシベリアで過ごした。帰国後は大映に入社。衣笠貞之助の助監督を務めた後、1954年に『丹下左膳 こけ猿の壺』で監督デビュー。市川雷蔵、勝新太郎の出演作を多く手がけ、徐々に評価を高める。1962年から数年間は気力の充実した絶頂期で、「剣三部作」をはじめ、多くの傑作を世に送った。大映倒産後はTV時代劇でも辣腕をふるったが、赤江瀑原作『オイディプスの刃』の映画化を予定していた中、1975年9月24日、肝臓の病のため死去。