石上 三登志

 三隅研次の描き出す映像はたしかに美しい。だがなぜか異様なのだ。ちょうど、まともに見たら美しくない絵を、上下を逆にして見たら美しく見えたような、本来なら美しいはずがないのに、やっぱりそこには美しさがある。

 三隅研次は“剣”を描く作家です。剣の持つ本質的な美を、彼は自己の作品として仕立て上げてきたといえるのです。私も又、剣にこそ、日本の美の典型があるのではないかと思います。死の道具を完成美として昇華させた私達日本人の美意識は、そのまま、私達の持っていた死の思想につながって行きます。

 美しい死、あっけない死、いとも簡単に、そして美しい死に花を咲かせた私達の先輩達。しかし、仏教的な来世思想にこだわらない現在の私達には、それがなくなりつつあるのは事実です。死が美しいものであった時代は、それははるか彼方なのです。私達はいつか“死”に目覚めつつあったのです。

 たとえそれがなくなっても・・・いやなくならければいけないのでしょう。しかし、そうだとしても、それと同時に日本的な美もなくなってしまうものでしょうか。

 確かに剣は、過去の遺物と化して博物館に飾られています。剣が美しかった時代は、とうに過ぎ去ったのです。

 だが、私達の先人が育て、私達が受けついできた日本美は、誰がなんと言おうと秀れたものなのです。それをなぜ私達は、いとも簡単に捨て去ろうとしているのでしょうか。死につながる美だからでしょうか。三隅研次は、その日本的な美、私達にとって次第に縁遠くなっていく日本美を“かたわもの”の美意識に置き換え、さらにより現代的な映像としてレイアウトし、表現し続けているのです。

 考えてみれば、そういった失われてゆくものを描こうという姿勢は、いわば自虐に似た心理なのかもしれません。しかし、三隅研次はマゾヒストではないかという指摘には、彼はきっとやさしい口調でこう答えるような気がするのです。

 「そうかもしれませんね」

(1966年) 

石上 三登志(いしがみ みつとし 本名:今村昭) 東京都世田谷区池尻出身。福島県立磐城高等学校、明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。61年にテレビCMプロダクション京映へ入社。第一企画を経て、64年に先輩の誘いで電通へ移籍した。電通ではラジオ・テレビ企画制作局に配属され。レナウンのイエイエなどのテレビCM制作に携わる傍ら、仁賀克雄、間羊太郎、山口剛、西田恒久らと「推理小説研究会」、曽根忠穂や宮田雪らと同人誌「OFF」の活動をした。

 66年から「映画評論」誌の読者投稿欄「読者論壇」に投稿を始める。このときに本名が嫌いだったこともあり、石上三登志のペンネームを初めて使う。採用が続くうちに編集長の佐藤重臣から原稿依頼を受け、投稿開始8ヶ月目の1966年10月号でライターとしてプロデビューした。73年8月下旬号から79年1月下旬号まで、TVムービーの映画評を断続的に「キネマ旬報」に掲載。この連載は後述の「私の映画史―石上三登志映画論集成」に収録されている。

 70年代 後半のSF映画ブームの頃には、「SF映画評論家」「スターウォーズ評論家」の異名をとる。77年に創刊された「映画宝庫」の責任編集を筈見有弘、増渕健らとともに担当。同じく77年には東宝の田中文雄からの依頼で『惑星大戦争』の企画に協力。78年には電通の仕事として東映のSF映画『宇宙からのメッセージ』の広告を担当した。「キネマ旬報」に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、78年に設置されたゴジラ復活会議に参加。84年に復活した『ゴジラ』に携わることになった。

 毎日映画コンクールや藤本賞の審査員を歴任した他、77年開始の手塚治虫文化賞の審査員を第6回(2002年)まで務めた。99年に電通を定年退職。電通で最後に手掛けた仕事である川崎市に建設予定のテーマパーク手塚治虫ワールドの断念が02年に発表される。11年時点で、JSPORTS(スポーツ専門チャンネル)の番組審議会委員を務めていた。

 2012年11月6日、骨髄がんのために死去。73歳没。(Wikipediaより)