今日は第三日目、清盛の母泰子(祗園の女御)に扮する木暮実千代さんが出演するというので、早目に宿を出て、結髪部に居るという木暮さんを訪れると、木暮さんは、『新・平家物語』の台本を膝の上にひろげて、結髪しながらセリフの暗唱ををしているところだった。
記者達が入って行くと、にっこり微笑みながら、「あら、いつから来ていらっしゃるの、京都は暑くて大変でしょう」と、早速労をねぎらってくれるほど、さすがに長い映画界生活を送っている木暮さんは苦労人である。
結髪部の窓から顔を出して、「すみません、九州から出て来たんですけど、写真を一枚撮らせてください」という少女の願いも即座にOKして、「あなたのキャメラのレンズの位置、其処じゃうつらないでしょう、もっと上に向けたら・・・」などと親切に教えたりする。
「欧州の旅行は如何でした?」と、木暮さんに訊ねると、「ルネ・クレールさんが、ジェラール・フリップとミッシェル・モルガンさんの主演で撮っている『大演習』というののセットへ行ってみたの、フィリップさんとクレールさんにお会い出来たんだけど、モルガンさんがちょうど出番のないときで会えなかったのが残念だったわ。だけど、クレール監督って思ったよりずっとお若くて、しかもお綺麗なんで驚いちゃったわ。ところが、クレールさんと御一緒に撮った写真が全部失敗してしまっているんで、がっかりしちゃったの」と、木暮さん如何にも残念そうに云う。
その時、拡声器の声で、「溝口組セット開始致します。出演者の方は、至急セットへお集まりください!」と、慌しく聞こえて来る。
「じゃ、あとでセットへいらっしゃるんでしょう」と、結髪の椅子からすくっと立ち上がった木暮さん、もうすでに祗園の女御と呼ばれていた忠盛の妻泰子になりきったような気品をみせて、長い髪を後になびかせながら、セットへ急いで行く。するとやはり此の場に出演する忠盛役の大矢市次郎さんも、ちょうど演技課の玄関の所でサンダルをつっかけて出て行こうとしているところだったので、気位の高い妻と、無骨者の武芸一辺倒の夫という夫婦仲の悪い夫婦を演する木暮さん、大矢さんとも
「どうぞ、宜しく」「こちらこそ宜しくお願い致します」と、セット外では仲良くなごやかに初共演の挨拶を交わしあっている。
新派のベテランの名脇役大矢市次郎さんは、いかにも忠盛の人柄そのもののような温厚で、真面目な方である。
そのなごやかだったお二人が、セットの中ではこのように争いの最中である。
「今度こそ、あなたも、恩賞や位をいただいて、人らしうおなりか、と思うたのに・・・つくづく、いやになってしまいました」と、虚栄心の強い泰子の木暮さんが云う、対手の夫の忠盛が黙ったまま、「あなたは伊勢の田舎育ちで、汚い貧乏も気になさらないでしょうが、わたしの縁者は、みな藤原一門の殿上人ばかりです」
その泰子の言葉を耳に入れず、縁に出た忠盛は「平太、平太」と、清盛の名を呼ぶ、「こんな雨漏りだらけの屋根の下で、昨日も今日も同じような月日を送るだけで、夏になっても船遊び一つするでなく・・・この上の辛抱はできそうにもありません」
どうにも仕方のない奴だといった顔で、忠盛の大矢さんが喋りまくる泰子を横顔でみる。
「・・・私たちは、先の院の白河さまのお声がかりで夫婦になったのです。あなたさへ、気心をお働かせになったら、どのようにでも面白く世渡りが出来ると思いますけれど・・・」「先の院の御恩寵に甘えることはできん」と、きっぱりと云う忠盛、
「今度ほど気落ちのしたことはありません。あなたという人は、生涯地下の暮らしから脱け出せないんですね、・・・あ〜あ、ほんとうに子供さえいなければ・・・」これを聞いて、清盛が思わずかっとして
「子供がいなければ、どうなさるんですか」と、色をなして母につめよると「とっくに、こんな家は、出てています」と、泰子は云い捨てて部屋を出て行ってしまう。
ベテランの木暮さん、大矢さんの円熟した演技、若い雷蔵の気魄のこもった演技に、セット全体がしだいに熱を帯びてくる。大映の大作『新・平家物語』のセット撮影は今まさに最高潮である。 |