=後  記=

 『新・平家物語』は大映で、総天然色で映画化することになっていますが、原作者吉川英治氏並びに今日まで原作を連載して来た週刊朝日の編集部、そして、大映の製作スタッフの人々の、協議の上、数回にわけて、映画化することになり、第一部は、青年清盛を中心に描くことになりました。あらかたの、取り上げ方、主題について、ほぼ意見の一致を見ていますが、具体的な詳細な検討はまだ、この稿を書き上げた時には、行われていません。従って、この稿は、脚色担当の依田、個人の、作品として見て頂きたく、発表の責任を負うものです。さらに推敲を重ねて、決定稿は他日また、発表するつもりですが、初稿がどう云う形で構成され、決定稿がどのように改訂されるかを見られることも興味深く、意義あることと思います。

 この作品は未熟で、発表するのは、いささか、つらいものがるのですが、「時代映画」発行の都合で、思い切って出しました。構成、描写を、粗野に扱ってみました。といって、決して未熟を云い逃れの口実にしようと云うのではありません。

 複雑な時代の背景、殊に、宮廷の中の藤原氏と上皇、天皇、女御、中宮などの関係、その政治的な策謀による、皇后冊立と、父子の悩み、そこからまた新たな対立を呼ぶ、挿話は(原作でもこの部分で重要な背景を作っています)なんとかして、それを取り入れようと努力して見ましたが、それは、それのみをもって、別に、詳細に描くべきものであると思い、あくまで青年清盛の心情にのみ終始しました。また袈裟盛遠の事件をめぐってのいきさつは、既に、大映の『地獄門』に詳細に取り上げて、映画化ずみであるため、これまた、青年清盛の心情を動揺させる一事件としてのみ取り上げております。歴史的事実を敢えて追っていません。時間的にも、原作をさらに歪めて構成しているところもあります。(時代映画55年5月号より)

 

 

 

 

 連日30度を越える猛暑のなかに期せずして京都の撮影所で4本の時代劇大作が同時にクランク・インした。時代劇のヴェテラン伊藤大輔の『王将一代』、溝口健二の『新・平家物語』、そして現代劇畠の中堅監督渋谷実の『青銅の基督』、大庭秀雄の『江島生島』。黒白映画2本、色彩映画2本の対照もおもしろく、それにもまして強烈な個性をもつ四監督が、入魂の演出振りこそ見物であろう。

 四監督それぞれの表情集にも、その個性が見られる。伊藤大輔の鬼神のような、大庭秀雄の女子大教授のような、溝口健二の仁王のような、渋谷実の古代ソフィストのような。


  清盛 「気をしずめて聞け、およそ、人を苦しめ、世をまどわせる神が、あろうか、たとえ、歴代のみかどの御霊を、報じる神輿であろうとも、汝ら無法の兇徒にかつがれて、大道を、押し歩けば、悪魔外道の手先と同じことだ。思い知れ・・・」

 清盛は弓に矢をつがえて、ひきしぼり、神輿にねらいをつける。

 映範は、とび上って

映範 「無法者・・・罰あたりめ。血へど吐いて、死ぬぞ」

清盛 「死ぬるものか、死なぬものか、見せてやるぞ」

(シナリオ 『新・平家物語』より)

 

(時代映画55年8月号より)