役者
雷蔵さんのことを
(ああ、いい役者だな)
と思ったのは、「新・平家物語」を見た時だった。
歌舞伎出身でありながら、それを全く感じさせない近代性があって、しかもいわゆる“きまり”のところでは、型の美しさも見せるという、まことに使い分けのうまい、得がたい人−の感じを受けた。そして私も勉強するところがあると思った。
ずっと後になって、はからずもその雷蔵さんと共演することとなり、「斬る」から「眠狂四郎無頼剣」まで十本近い作品で一緒したが、最初にスクリーンから受けた印象は、誤りでないことが裏付けられた。
私も人付き合いのよい方でなく、それだけ共演しながら、彼とは仕事以外の交際がほとんどなかったので、その私生活については全く知らないのだが、それでいてお互いにどこか共通したところがあったのではないか、といろいろ思い当る節がある。そんなところが、役柄の上にも反映しているような気がする。
最後の共演作品となった「眠狂四郎無頼剣」は、私も好きな出演作の一つだが、私の演った「愛染」と名乗る浪人なども、その好例だろう。これは脚本の伊藤(大輔)先生が最初から私というキャラクターを想定して書かれたのではないかと思うほどで、しかも監督の三隅(研次)さんがうまく使ってくれて、雷蔵さんと大変興味ある対比となった。すなわち、愛染は狂四郎とどことなく似ていて、そのくせ考え方も生き方も全く違っている。お互いに共感するところがあり、むしろ一種の親近感さえ湧いてくるほどなのに、思想なり主義なりの相異から最後には大屋根の上の対決、しかも同じ円月殺法で−時代劇ならではの面白味を一杯盛りこんで、しかも狂四郎必ずしも善でないのと同様、愛染もまた必ずしも悪でないというところ、人間味ゆたかな時代劇となったのである。
いつも、撮影の合間などに、なんとなく雷蔵さんを見ていると、照明部の連中をはじめ親しいスタッフを追っかけまわしたり、突然刀でひっぱたいたり、およそ画面の彼からは想像出来ない陽気なパーソナリティの持主で、それがひとたびカメラの前に立つと、その瞬間からピシッときまって、“生で見る狂四郎”になっている。ここにも「役者だな」と思わせるものを持っている人だった。
俳優には、まず素質というものが絶対に必要だし、その素質を自ら養い育てて行く自分自身も欠かせられない。さらに個々の役に賭ける情熱といったもの、それらがミックスされてはじめて人の心を捉えるのだと思っているが、現実にはなかなかその理想通りに行っていない。立派な役者というのがいかに数少ないかということがそれを証明しているわけだが、市川雷蔵という人は、その数少ない中の一人だったことだけは確かである。(CD「眠狂四郎 市川雷蔵・魅力のすべて」解説より)