キャメラマンが見た雷蔵の魅力
雷ちゃんが亡くなったのは昭和四十四年の七月十七日、祇園祭の時でした。亡くなる少し前、雷ちゃんは祇園祭の宵山を奥さんと手をつないで歩いたと書いています。自分がスターであるために、夫婦そろって歩くこともない、でも祇園祭の夜は大変な混雑で、誰にも気づかれずに手をつないで歩けて妻がとても喜んだ、と書いてあるのを読んで、ぼくはホロリとした。だから祇園祭になると、今でも雷ちゃんを思い出すんです。
雷ちゃん主演の映画で、ぼくがキャメラを回したのは十三本。初めてのシャシンが昭和三十年の『次男坊鴉』(弘津三男監督)です。撮影の時にふと感じたのは、足腰がひ弱わな役者だな、ということでした。キャメラのフレームに全身を入れると、下の方が弱い感じになってしまう。
阪妻さん(阪東妻三郎)を見ればわかるように、芝居の動きというのは足腰からくるものなんです。そこから演技の図太さみたいなものが生れてくる。ところが雷ちゃんは、上半身で演技をしている感じでした。そこでぼくは、意識的に上半身にキャメラを据えた。そうしたほうがいい、と監督にも申し上げました。
二作目が溝さん(溝口健二監督)の『新・平家物語』(昭和30)です。雷ちゃんは平清盛の青年時代を演じたわけですが、溝さんもひと目見てひ弱さを感じたらしく、製作の連中に何度も「大丈夫かいな」と不安を漏らしていたようです。
ぼく自身も、溝さんが「ものになるかな」と心配そうにおっしゃるのを二回ほど耳にしました。ですから、「メーキャップなどで形ができると思いますよ」と言っておいて、フィルムテストのラッシュを溝さんにお見せした。溝さんは「いいじゃないか」とたちまちご機嫌になったんですが、『次男坊鴉』で一回でもやっておいて本当によかったと思いました。実際、楼門に立つシーンではしっかりしてきた。徐々に足腰ができてきたんでしょう。
足腰の弱さというのは後ろ姿に出るんです。正面なら顔に目がいくから誤魔化せても、後ろ姿だとそうはいきません。ところがぼくは、雷ちゃんの後ろ姿がだんだん好きになった。後ろ向きでトボトボいくところが、いかにも雷ちゃんらしくて、とても好きになったんです。
チャップリン映画のラストシーンがそれなんです。あの人の映画の六〜七割は、後ろ向きに歩いていくというラストじゃないでしょうか。ぼくはそういうラストシーンを雷ちゃんで撮りたくて、森一生監督の『ある殺し屋』でようやく実現できたんです。構図的には少しも崩さず、画面の真ん中を歩いてもらう。固定した背景の真ん中に、静かに動くものがひとつ−その強さを雷ちゃんで撮れたのは幸せでした。