ぼくと雷ちゃんの最後のシャシンになった『ある殺し屋』『ある殺し屋の鍵』(昭和42=森一生監督)には、そんな市川雷蔵が大変よく出ていると思います。これは思い切りキザっぽくフランス調で撮りたかったシャシンで、監督の森さんも大いに乗ってくださった。セリフは可能な限り少なくし、説明的な絵もできるだけ排除する。そして森さんと話し合って、「色はなるたけ殺してモノクロ調でいこう」となったんです。
殺しを依頼された主人公が埋立地のぼろアパートに落ち着きますが、その殺風景な部屋をくすんだ灰色の色調で撮る。そして殺し屋がカバンから取り出した包を開けると、真っ赤な布の上に拳銃があるわけです。画面ではさり気なく出てきますが、灰色のあとの赤という具合に、配色にはかなり神経を使いました。とても好きなシャシンです。
雷ちゃんの芝居も抑制がきいて、本当に素晴らしいものでした。この主人公は、普段は平凡で無口な飲み屋の主人だが、裏の世界では名を知られた殺し屋だという設定です。雷ちゃんはそれを十分飲み込んで、実は彼自身もこういうことをしてるんじゃないかと思わせるくらい凄味のある芝居を見せてくれました。
雷ちゃんというのは、普段はメガネをかけていて、どちらかというと小柄な、どこにでもいるような感じの人です。ところが、撮影所に一歩足を踏み入れたとたんに人が変わる。たちまち役者の顔になる。天性の役者だったという気がします。
キャメラのレンズを通して感じていたことですが、雷ちゃんという役者は常に清潔でした。皮膚にまったく疲れはないし、目がキラキラと光っている。おそらく仕事の間は自己を律して、日常生活のあれこれを決して撮影所には持ち込まないようにしていたのでしょう。レンズを通して見ると、それがよくわかりました。
幻の狂四郎映画
『ある殺し屋』はずいぶん客が入ってシリーズ化の話しもあったんですが、なぜか二作で終わってしまいました。会社側が「もう雷蔵に現代劇はやらせない」と言ったという話も耳に入りましたが、雷ちゃん自身がしんどいと思ったのかもしれません。ただでさえ、『眠狂四郎』『忍びの者』『若親分』『陸軍中野学校』とシリーズ物がメジロ押しだったし、この頃にはもう体がかなり悪くなっていたんでしょう。
雷ちゃんの体がちょっとおかしいなと思ったのは『赤い手裏剣』(昭和40=田中徳三監督)の時でした。馬に乗って走るところで膝がしまらず、体が横に揺れている。縦に動くならともかく、横に振られるのは体に変調をきたしていたからでしょう。それから二年後の『ある殺し屋』と『ある殺し屋の鍵』では、「静」の芝居が多いせいで気づきませんでしたが、あとになってから、抗生物質を飲んでかなり無理をしていたと聞きました。そして『ある殺し屋の鍵』を撮り終えてから一年半後、雷ちゃんは三十七歳の若さでこの世を去ったわけです。
ぼくは雷ちゃんの眠狂四郎シリーズを一本も撮っていませんが、どうしても撮りたかった狂四郎映画があるんです。オールロケでモノクロームで、三隅研次さんの監督で撮ってみたかった。
実はロケ地も決めてありました。京北にある常照皇寺というお寺です。鬱蒼とした深い森の中にあるお寺で、たとえ真っ昼間でも、お堂から何からすべてが暗闇の中にある。ところがその庭に、しだれ桜の古木が一本あってこの古木だけに木漏れ日が当たる。といっても、朝の十時から午後の一時頃までの、わずか三時間だけなんです。磁石を持ってロケハンに行った時、ふと常照皇寺に入り込んで「陽の当たる時間が短いなぁ。不思議だなぁ」と気づいたとたんに、「これは狂四郎の世界だ」と思い当たりました。
当時は、誰にもこの話をしていません。会社に話したところで、宮川にそんなものを撮らせたら凝りに凝って、どれくらい時間がかかるかわからん、と言われるのがオチですから(笑)。でもぼくは、あの光のなかに狂四郎を立たせて、トップシーンとラストシーンを撮ってみたかった。幻の狂四郎映画は、今でもぼくの頭の中にあるんです。
ただ、常照皇寺の様子もずいぶん変わってしまったようです。その変化を見るのが嫌だから、もう十年以上も足を運んでいません。幻は幻のままにしておくのがいいのではないでしょうか。
雷ちゃんが亡くなってちょうど十二年目に、池上の本門寺にある彼のお墓へ参りました。そうしたら、綺麗な花が供えてあって、ちょっとした物を置くような石のところに手紙がぎっしり詰まっていた。驚いたことに、雷ちゃんの後援会はずっと続いていて、お墓にまでファンレターが届いているんです。
そういえば本門寺には、雷ちゃんが一番印象に残る監督だと書いた溝口さんのお墓があります。これも何かの因縁でしょう。(文藝春秋社刊「オール読物」91年8月号特集・蘇るヒーロー市川雷蔵より)