くろーずあっぷ 市川雷蔵 三田正道
「歌舞伎の舞台としては、昭和27年6月の大阪歌舞伎座が最後だから、十年ぶりということになります。しかし『勧進帳』は鶴之助さんと、『一の谷物語』は扇雀さんとでしょう。関西歌舞伎で親しくお付合いしていた。いっしょに遊んだり芝居していた人たちでしょう。十年という気持ちを感じないんですよ。そういう意味では、久し振りに舞台に立つという緊張感はありませんでした。相手の芝居もよく分るし、助かりましたね。いい出方をさせてもろうたと思ってます」
日生劇場一月公演の話だ。自信のほどがうかがえる。が、“自分は映画俳優だ”と割切る雷蔵にとって、久し振りということでの緊張感はないにしても、舞台そのものは別問題だ。武智鉄二氏から声がかかってからも、出しものも、たくさんはとてもやれないから・・・・と『勧進帳』の富樫と『一の谷物語』の敦盛だけに限って、出演することにした、というが、毎日の疲れ方はたいへんなものだ。
「やりづらいのは、やはり『勧進帳』の方ですね。なんといっても、歌舞伎の最も有名な古典の有名な役でしょう。音楽的にも劇としても、一般に知れすぎている。比較されますからねえ。ただ、僕が一人出ているために“らしからぬ”印象をお客に与えてはいけない。ただ、それのみを考えましてねえ」
だから、「現在の状態は、正直いって、とても苦しい。やはり、舞台の生の感動はいいでしょう、と人からいわれても、いまは、とってもそんな気持ちどころではない。これからはまたときどき舞台になど考えてもいない」という。
「毎日々々が勝負でしょう。しかも、毎回新しいお客さんなんですねえ。舞台から離れていると、どうしても緊張のしっ放しになる。持続の仕方、というか、どう気持ちのハリを集中させるか、というカンが狂ってくるんですね」。
が、このことは、映画という仕事の反省にもなる。もちろん、リハーサルの段階から、役になりきって、本番のときに自分の気持ちを、最高の状態に持っていく、という操作を考えれば、本質的には、映画もさして変りはないだろう。が、とかく安直な気持ちに支配されるのが、いまの映画界の現状だ。ダメだったら、撮り直しがきくことだけをとっても、それはいえる。
「溝口さんのときだけは、別でしたが、仕事の真剣味という点で、映画のほうが安易ですねえ。ぬくぬくやっていた。映画での仕事振りの反省になりました。なぜといって、この広い空間を一人で出てもたせなければいけないんですから」・・・・。お客の気持ちを集中させなければいけないのですから。演技力をつける意味では、舞台出演は必要なことですね」。
こんど出演にあたっては『勧進帳』は市川寿海から、いろいろ参考意見などを聞いたうえで、あとは武智演出にまかせたそうだし、『一の谷物語』でも、戯曲を書く前に話し合ったという。
「石原慎太郎さんは、映画の『太陽の季節』や『処刑の部屋』あるいは一、二の新劇の舞台を通してだけのお付合いで、よく知らなかったんですが、セリフをいってみて、また作られた人物になってみて、すばらしいですね。日本のこれからの作家であり、戯曲家だと思います。お付合いができたことは、僕にとっても、とてもプラスでした。こんどの舞台で、多少間のびしたとすれば、それは演出のミスがあったのではないかと思っています。最初お会いしたとき、素材はそれなりに大変結構だけど、それを超越した、すばらしいものに、コクトーの『オルフェ』のような感じに、とお願いしていたのですが、感じていたのと同じような作品でしょう。それに、出来るだけ早く、とお願いしていたら、十一月の初めにはできた。セリフも十分に覚えてからやれましたし、うれしいですね、こういうことは」。
また、こんどの舞台が、寿海に似ているという下馬評が多いが、これも「父を見ていると、すばらしいと思う。そうした、父を敬愛する気持ちが、結果的にそうさせるのかもしれないが、決して、真似ているのではない」という。
ともかく、この『一の谷物語』は大映で映画化されるというし、一月公演は市川雷蔵という“映画俳優”が、十分、まだ、舞台俳優としてやれる、という意地と才能とをみせてくれた。
今後、歌舞伎の古典をやるかどうかは分らないが、映画の仕事をしていて、多少地味で映画ではどうにもならないが、舞台でやってみたいものも、いくつかはあるそうだ。
「彼はいいにつけ悪いにつけ、合理主義者だ」(市川崑監督)とも、よくいわれる。映画界でも、ひところに比べると、やや、演技が甘くなってきた、といわれている雷蔵にとって、この公演が、彼にやる気を起させたとすれば、演技力を充実させ、さらに伸びていくための、この上ない契機を提供したといえるだろう。(演劇界昭和39年2月号のくろーずあっぷより)