「素質というものはやはり持って生れたものですが、これからその素質を如何に伸ばすかが問題で、まだまだ本当の勉強が大事ですよ。それには、やれ後援会の何のと、あまり外部からさわぎ立てないようにしてもらいたいと思います」
と、本当の気持を披歴している。
もう一つ雷蔵についていえることは、大変メイキャップがうまいという点である。
これにはつぎのような面白い話がのこっている。ある時、菅原謙二が、はじめて時代劇に出演することになって、京都の撮影所へやって来た。そして廊下で、雷蔵とパッタリと顔を合わせた。心易い仲であり、久しぶりなので、雷蔵の方から声をかけようとしたが、菅原はそのままゆき過ぎてしまった。
雷蔵は
「何か気にさわったことでもあったのかなあ」
と心配した。
しかし、それは勘違いで、実は菅原謙二の方で、髷を結って侍姿に扮している雷蔵と顔が合った時、これを雷蔵と思えなかったのである。
「あの時は全然気がつかなかったよ」
とあとで菅原謙二が述懐していたが、それほどに雷蔵はメイキャップがうまいのである。
彼のファン層というものは、どちらかといえば、ティーンエージャーよりも、二十五、六歳から三十歳の女性に多く、この点錦之助、橋蔵たちとちがっている。いうなれば、東千代之介のファンと同じ種族といえるかもしれない。ファン雀の口は、とかくうるさくて、雷蔵は再び舞台に帰りたいなどといううわも聞くが、市川寿海との舞台の上での親子の競演は彼の一つの念願であったとしても、映画を捨てるなぞという気持はない。
いずれにしても、彼自身もつねに口にしているように、彼は本当にこの世の中には、血縁につながる者を一人も持たない天涯の孤児である。それだけに
「自分の一代は、自分ではじまるのだ」
という心構えと、一種の気迫を若い身にみなぎらせている。実にたのもしい若手スターとして、わたしは彼の今後の精進をのぞみたいし、これからの映画界を背負う大スターとしての成長を心から楽しみにしているのである。
これが「時分はお茶漬けを食べても、莚蔵(雷蔵)だけは自動車にのせてやりたい」とつねにいって、またその通り実行した育ての親、市川九団次の恩に報いる何よりの孝養であり、また同じく養父である市川寿海の恩に報いる唯一つの道である筈である。
註:玉木潤一郎(1901-1968)俳優、映画プロデューサー。香川県 木田郡三木町池戸に生まれ。幼い頃から芝居に親しみ、大阪・無名座で初舞台を踏む。大正13(1924)年東亜キネマ俳優部に入社。マキノプロに転じ、数作品に出演。昭和3(1928)年俳優を辞め、千恵蔵プロ宣伝部長、日本演芸関西通信社長、通信合同社常務を歴任。昭和22(1947)年東横映画(東映)宣伝課長を経て、プロデューサーとなる。主として片岡千恵蔵主演作を手がける。主な出演作品に『稲妻(前・後篇)』『鳴門秘帖』(マキノプロ)、プロデュース作品に『はだか大名』『逆襲!鞍馬天狗』『水戸黄門漫遊記』『大菩薩峠・三部作』(東映)など。著書に「日本映画盛衰記」がある。昭和34(1959)年第二回牧野省三賞受賞。
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